60周年記念!NHL史上最高のドラフト指名選手は誰だ!(その2)

現役スター選手紹介

はじめに

 NHL公式サイトに登場したよだれモン企画、過去のドラフトの歴史を振り返り、(ドラフト60周年にちなみ)史上最高のドラフト指名選手60人選出の第2弾です。今回は57〜51位までの7人、フォワードとゴールテンダーの名前が出ている反面、ディフェンスマンは今のところ無し。

 前回の記事はこちら→

 今回も1巡目・ヒト桁順位指名の選手もいれば、15巡目指名という、今じゃ考えられないくらい後半で指名された選手もいます。

 エドモントン・オイラーズとロサンゼルス・キングスから指名された選手が2人ずつ、7人中4人を占めています。これだけで判断できませんが、好調をキープし続ける2チーム、やっぱり昔からスカウティング上手いのかな…。

讃岐猫
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いよいよ今月末にはドラフトが開催されるにゃ。

今のところ、指名権を含めた大型トレードはないけど、

ドラフト当日、ドラマが起きるかもしれない…。

引用元:NHL.com「60 Diamonds: Greatest picks from 60 NHL Drafts, Nos. 60-51」。

オイラーズのドラフト巧者が光る1979年!

57.グレン・アンダーソン、F(フォワード) (114ポイント)

指名順:エドモントン・オイラーズ 第4巡目(全体69位)、1979年

 1979年のNHLドラフトで、オイラーズは最初の3つの指名により、ホッケーの殿堂入り選手を選び出すという最高の日々を送りました。

 第1巡目でケビン・ロウ(全体21位)、第3巡目でマーク・メシエ(全体48位)を選んだ後、エドモントンはデンバー大学でプレーしていたアンダーソンを指名しました。

ケビン・ロウ=カナダ、ケベック州ラシュート出身、64歳。現役時のポジションはディフェンス。1988年のスタンレーカップ、ロウは手首を骨折してフルギプスでプレーしたが、1試合も欠場しなかった闘将。

 優勝を決めた夜、ウェイン・グレツキーは「プレーオフ中、ロウは肋骨も骨折していた」と語っている。

マーク・メシエ=カナダ、アルバータ州エドモントン出身、62歳。現役時のポジションはセンター。プレーオフでの勝負強さに定評があり、リスト・ショットの達人。

 レンジャース在籍時代、1994年のイースタン・カンファレンス決勝で、2勝3敗と追い詰められたチームを鼓舞し、自らのゴールで第6戦に勝利、そのままスタンレーカップを獲得させた有言実行の男。

 1980-81シーズンにオイラーズに加わり、9回ある30ゴールをマークしたシーズンのうちの最初の1回を経験し、1983-84シーズンと1985-86シーズンには54ゴールを記録しトップに立っています。

 この右ウィングの選手はエドモントンでスタンレーカップを5回獲得した後、1994年にニューヨーク・レンジャーズで6度目の優勝を果たし、バンクーバー・カナックスとのカップ決勝第2戦と第3戦で決勝ゴールを決めました。2008年に殿堂入りしています。

指名されてすぐトレードされた名選手!

56.ジャロメ・イギンラ、F (122ポイント)

指名順:ダラス・スターズ、第1巡目(全体11位)、1995年

 ドラフト終了後、イギンラは二度とスターズのジャージを着る機会がありませんでした。ダラスが彼を指名してから5ヶ月後、この右ウィングの選手はカルガリー・フレームスにトレードされ、16シーズン在籍したチーム史上最高の選手となったのです。

 彼はゴール(525)、ポイント(1,095)、出場試合(1,219)でフレームスのトップにいます。イギンラは50ゴールを2度記録しており、その中にはリーグ最多の52ゴールを記録した2001-02シーズンの96ポイントも含まれています。

 通算625ゴールはジョー・サキッチと並んでNHL史上16位で、2020年に殿堂入りしています。

ジョー・サキッチ=このブログに何度も登場した「ミスター・アバランチ」。「バーナビー・ジョー」の愛称で親しまれた彼も、リスト・ショットの名手。

 1997年、FAで流出濃厚と言われた時、アバランチのオーナーが手掛けた映画『エア・フォース・ワン』の思わぬ?大ヒットのおかげで、サキッチを引き止めることができたという話は米国らしい。

讃岐猫
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トレード後、NHL史に残る選手となったイギンラを見て、

スターズの関係者やファンはどう思ったんだろうにゃ。

頻繁にトレードやってるから、あんまり感じてないかも…。

GKが続きます!

ワールドカップ優勝にも貢献した名GK!

55.マイク・リヒター、G(ゴールテンダー) (124ポイント)

指名順:ニューヨーク・レンジャーズ、第2巡目(全体28位)、1985年

 NHLでの最初の4シーズン、リヒターはジョン・バンビーズブルックとニューヨークで過ごしましたが、1993年にバンビーズブルックが退団すると同時に、ゴールキーパーとしてのキャリアがスタートしました。

ジョン・バンビーズブルック=米国、ミシガン州デトロイト出身、59歳。NHL史上16位の勝利数を記録しつつ、敗戦数も歴代6位。

 ゴールテンダーとしては小柄な方だったが(約173センチ)、バタフライ・スタイルとより伝統的なスタンドアップ・スタイルを組み合わせたハイブリッド・スタイルでゴールを守り抜いた。

 1993-94シーズン、リヒターは42勝を挙げてNHLのトップに立ち、その後、プレーオフ23試合で4度のシャットアウトを記録して、レンジャーズのスタンレーカップ優勝に貢献したのです。

 また、1996年のホッケー・ワールドカップ、アメリカ優勝に貢献した最も価値の高かった選手でもあります。2003年のNHL引退時、リヒターはレンジャーズを率いて301勝を挙げており、米国生まれのゴールキーパーの中では3位でした。

アイランダーズ王朝を支えたGKも!

54.ビリー・スミス、G (125ポイント)

指名順:ロサンゼルス・キングス、5巡目(59位)、1970年

 1971-72シーズン、キングスで5試合に出場した後、スミスは1972年のNHLエクスパンション・ドラフトでニューヨーク・アイランダーズに指名され、スタンレーカップ4連覇(1980~83年)の中心選手として頭角を現しました。

 これらのスタンレーカップ決勝戦の間、このゴールキーパーはプレーオフで57勝13敗を記録し、アイランダーズが16連勝したプレーオフ・シリーズで、2試合以上負けたことがありませんでした(つまり、連敗がなかった)。

 1982年、スミスはNHL最優秀ゴールキーパーとしてベジーナ・トロフィー、1983年、コン・スマイス・トロフィー(プレーオフで最も活躍した選手に贈られる賞)を獲得しています。1989年の引退時、プレーオフ88勝はNHL史上最多で、1993年にはホッケーの殿堂入りを果たしました。

 「1980年代初頭、王朝時代にあったアイランダー(ファンのこと)のために、スミスは5巡目指名から熱狂的に迎えられる最終防衛線へとなっていきました。

 〈闘志あふれるビリー〉をGKに据えたアイランダーズはスタンレーカップを4シーズン連続で制し、1984年に再びカップ決勝に進出しましたが、エドモントン・オイラーズに敗れてしまいました。

 ニューヨークがプレーオフでシリーズ19連勝という驚異的な成績を残したことは、今でも記録として残っています。

 スミスはホッケーの殿堂入りを果たしており、2017年には偉大なるNHL選手100人に選ばれました。5巡目指名にしては、かなりお値打ちな存在なのです」―トム・グリッティ、スタッフ・ライター。

讃岐猫
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エクスパンション・ドラフトで、

運命の変わった選手の一人だにゃ。

エクスパンションに関する悲喜こもごもも

記事にしてほしいなぁ。

15巡目で指名された「原石」

53.デイブ・テイラー、F (131)
指名順:ロサンゼルス・キングス、第15巡目(全体210位)、1975年

 ドラフトの後半で指名された選手が、これほど多くのことを成し遂げたことはありません。

 テイラーは、NHL2年目となる1978-79シーズンに、マルセル・ディオンヌとチャーリー・シマーとともに「トリプル・クラウン・ライン」でブレイクし、3回達成したうちの最初の40ゴールをマークしました。

マルセル・ディオンヌ= カナダ、ケベック州ドラモンドビル出身、71歳。現役時のポジションはセンター。レギュラー・シーズンでは大活躍するが、プレーオフではあまり勝ち進めなかった悲運の選手。

 1979年、青少年糖尿病研究財団への募金活動として、カナダのソング・ライターであるアラン・シックが書いた曲「プリーズ・フォーギブ・マイ・ミスコンダクト・ラスト・ナイト」をチームメイトと歌い、レコード発売している。

チャーリー・シマー=カナダ、オンタリオ州テラス・ベイ出身、69歳。現役時のポジションは左ウィング。キャリアを通じ、度重なるケガのため、ほとんど全試合出場できなかったが、キャプテンとしてチームを牽引。1986年、その忍耐力とホッケーへの献身が評価され、ビル・マスタートン・トロフィーを受賞している。

 1994年、この右ウイングの選手が引退したとき、彼は1,111試合に出場してキングスのトップに立ち、431ゴールと1,069ポイントはディオンヌ(550ゴール、1,307ポイント)に次ぐものでした。

 NHL史上、第10巡目の後に指名された選手のうち、1,000試合に出場して1,000ポイントを挙げた唯一の選手なのです。

シーズン全休の後、プレーオフで大活躍!

52.ニキータ・クチェロフ、F (145)
指名順:タンパベイ・ライトニング、第2巡目(全体58位)、2011年

 クチェロフは、ライトニングでの9シーズンの間に、NHLで最も影響力のある攻撃的なプレーヤーの1人に成長しています。

 2018-19シーズン、この右ウィングの選手は、ハート・トロフィー(シーズン最優秀選手賞)とアート・ロス・トロフィー(シーズン最多ポイント賞)を受賞しましたが、これは当時のNHLでは1995-96シーズン以来の最多ポイント(41ゴール、87アシスト)となりました。

 2020年、プレーオフ25試合で34ポイント(7ゴール、27アシスト)を記録してNHLのトップとなり、タンパベイのスタンレーカップ優勝に貢献しています。

 股関節手術のため2020-21のレギュラー・シーズン欠場後、ライトニングが再びカップ戦のチャンピオンになろうとする中、回復した彼はプレーオフ23試合で32ポイント(8ゴール、24アシスト)を記録して再びリーグのトップに立ちました。

 29歳の彼は、少なくとも30ゴールを6回決め、100ポイントのシーズンを3回経験しています。

讃岐猫
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レギュラー・シーズンほとんど出てなくて、

プレーオフでそれまで以上の活躍をするって、

並大抵の体力と精神力じゃないにゃ!

黒人選手として初の殿堂入り!

51.グラント・フール、G (147)
指名順:エドモントン・オイラーズ、第1巡目(全体8位)、1981年

 1975年のNHLドラフト以来、1巡目でゴールキーパー獲得はありませんでしたが、1981年のNHLドラフトで、オイラーズは、スタンレーカップ優勝の5回すべてでゴールを死守し、殿堂入りを果たしたフールを1位で指名しています。

 エドモントンでの10シーズン(1981~91)で平均失点3.69は目立たないかもしれませんが、その間に2度もNHLでの優勝にチームを導き、1987-88シーズンにはヴェジーナ・トロフィー(シーズンにおける最高のGKに贈られる賞)を獲得しています。

 400勝を挙げた13人のゴールキーパーの1人で、2003年に黒人選手として初めて殿堂入りしました。

ここぞという時に守ってくれる!

 「フールについて、この統計による数字は非常に際立っています:オイラーズでの10シーズンの間、彼はプレーオフで111試合に出場しました。

 この間、彼は3,161本のシュートに相対しており、これは他のどのゴールキーパーよりも1,000本以上多いのです(次点はパトリック・ロイの2,105本)。

パトリック・ロイ=カナダ、ケベック州ケベックシティ出身、57歳。愛称は「セイント・パトリック」。2004年、41人のライターからなる委員会とファン投票によって、ロイはNHL史上最も偉大なゴールテンダーに選ばれている。

 プレーオフ最優秀選手賞を3回受賞した唯一の選手。背番号33は、カナディアンズとアバランチの両チームで永久欠番となっている。

 それらすべてをセーブする必要はありませんでしたが、フールは重要なセーブをしたため、スタンレーカップの歴史に5回も名前が載っているのです。フールの偉大さは、チームメイトに自信を与えたことにありました。

 自分達をカバーしてくれるエリートGKがいると知ったので、オフェンス・ゾーンで、自分達の望むように創造的で大胆になれたということです」—アダム・キメルマン、副編集長。

まとめ

 1975年以来1981年まで、ドラフト1巡目で、ゴールキーパー指名・獲得がなかったとは驚きです。他のポジションと比べて、現役プレー期間の長いことが影響しているのでしょうか。

 つまり、チームに大黒柱が1人できれば、しばらくドラフトで獲得しなくてもいい、緊急で必要なら、トレードやFAで計算できるプレーヤーを獲る、と考えても不思議ではありません。経験値が物を言うポジションでもありますし。

 冒頭にスカウティングの上手さについて触れましたが、オイラーズが急速に力をつけて、強豪にのし上がったのは、その部門への力の入れ方が、他チームより優れているのかもしれません。そういうチームには、マクデイビッドのような選手の指名権が、不思議と舞い降りてくるのです。

讃岐猫
讃岐猫

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!

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