はじめに
カルガリー・フレームズは1972年の加入以来、全ドラフト指名の半数強(53%)の264人のカナダ人選手を獲得しました。そのうち100人強が実際にチームでプレーしており、これは全指名選手の20%強、チーム史の全選手のおよそ7人に1人に相当します。
本記事では、これまでの歴史の中でドラフト指名されたカナダ人選手の中から、チーム史上最高とされる10人の名選手について詳しくご紹介していきます。

ドラフトを前にして、ニュージャージー・デビルズのサイモン・ネメツが、カルガリー・フレームズへトレードされたのをきっかけに、フレームズのドラフト指名選手とトレードの歴史を振り返ってみたにゃ。今回は本文だけでなく、注釈もしっかり読んでいただくと、フレームズのフロントが様々な策を練り、実行し、成功させてきた歴史が分かると思う。最近、失敗例が多いとされるチームだけど、今回のネメツは成功の予感するんだけどなぁ。
参照記事:Flames Nation「The 10 best Canadian draft picks in Calgary Flames history」
初期の礎を築いたレジェンドたち(ライシアック、マキニス、バーノン)
まずは1973年ドラフト全体2位という、モントリオールとの大型トレードで得たチーム最高位タイの指名権で獲得したトム・ライシアックです。
ウェスタン・リーグのメディシンハット・タイガースでスターだった彼は、すぐにロースター入りし、アトランタ時代のチーム初期における本当の意味での生え抜きスターとなりました。
ライシアックは30ゴールを2度記録し、チーム初の通算得点王になります。
彼のアトランタでのキャリアは1979年、シカゴ・ブラックホークスとの8選手による大型トレードで終わり、ダーシー・ロタ、イワン・ボルディレフ、フィル・ラッセルが移籍。ラッセルはカルガリー移転後にキャプテンを務めました。
【注釈1】
- 1973年ドラフト全体2位 1971年6月、創設前のアトランタ・フレームズがモントリオール・カナディアンズとの間で成立させたトレード(アトランタが金銭と将来の指名権を譲渡し、モントリオールから複数の選手と「1973年ドラフト1巡目指名権」を獲得)によって手に入れた権利である。 当時のモントリオールは、リーグ拡張に伴い新設される弱小チームから上位指名権を巧みに巻き上げる戦略をとっていたが、フレームズの初代GMクリフ・フレッチャーが交渉を結実させた。 1973年ドラフトにおける全体2位(全体1位はニューヨーク・アイランダースのデニス・ポトヴィン)という順位は、フレームズの歴史(アトランタおよびカルガリー時代を含む)において、現在に至るまで破られていない史上最高位タイの指名順位である。
- ウェスタン・リーグのメディシンハット・タイガース
カナダの3大主要ジュニアホッケーリーグの一つであるウェスタン・カナディアン・ホッケー・リーグ(WCHL、現在のWHL)に所属し、アルバータ州メディシンハットを本拠地とする名門ジュニアチーム。 トム・ライシアックは同チームに1970年から1973年まで在籍し、1971-72シーズンに143ポイント、1972-73シーズンに154ポイントを記録して2年連続でリーグ得点王(ボブ・クラーク・トロフィー)を獲得した。 当時のチームメイトには、後にNHLのレジェンドとなるラニー・マクドナルドがおり、ジュニア界最強のデュオとして1973年のWCHL王座を勝ち取っている。 - アトランタ時代 現在のカルガリー・フレームズが、1972年の創設から1980年5月に財政難によるオーナー交代でカナダのアルバータ州カルガリーへ移転するまでの8年間、ジョージア州アトランタ(本拠地:オムニ・コロシアム)で「アトランタ・フレームズ」として活動していた黎明期を指す。 ライシアックは創設2年目の1973-74シーズンに加入すると、初年度からチーム最高の64ポイントを挙げてチーム初のプレーオフ進出を牽引。 アトランタに在籍した全5シーズンでチーム内得点王となり、オールスターゲームにも3度選出され、1977年からはキャプテンを務めるなど、名実ともにアトランタ時代における最大のスタープレイヤーであった。
- 1979年、シカゴ・ブラックホークスとの8選手による大型トレード 1979年3月13日のトレードデッドライン(移籍期限)直前に成立した、計8人の選手が動いた当時のNHL史上最大級の大型取引。 アトランタ側は、チームの象徴でありキャプテンだったトム・ライシアックに加え、パット・リブル、マイルズ・ザハルコ、ハロルド・フィリポフ、グレッグ・フォックスの計5選手を放出。シカゴ側からイワン・ボルディレフ、ダーシー・ロタ、フィル・ラッセルの3選手を獲得した。 プレーオフ進出への起爆剤として、また財政難の中でチームの若返りと刷新を狙ったフレッチャーGMによる苦肉の断行であったが、アトランタのファンからは猛反発を受け、結果としてアトランタ時代の終焉と翌年のカルガリー移転を加速させる一因となったと言われている。 なお、このとき移籍してきたディフェンスマンのフィル・ラッセルは、カルガリー移転後にキャプテンに就任している。
続いてノバスコシア州ケープブレトン出身のアル・マキニスです。
オンタリオ・リーグのキッチナー・レンジャーズから1981年全体15位指名を受け、1983-84シーズンに20歳でレギュラーとなると、チーム史上最高の攻撃型ディフェンスマンへと成長。パワープレーの司令塔として大活躍しました。
彼の強烈なスラップショットは、外れると各地のガラスを破損させ、ペナルティキラーやアリーナ関係者からも恐れられました。11年間プレーし、何度もノリス賞(シーズン最優秀ディフェンスマンに授与される賞)争いに絡みスタンレー・カップを獲得。
コン・スマイス賞(プレーオフにおける最優秀選手)も受賞した彼は、1994年にオファーシートを機にセントルイスへ移籍しました。
【注釈2】
1. オンタリオ・リーグのキッチナー・レンジャーズ
カナダの3大主要ジュニアホッケーリーグの一つであるオンタリオ・ホッケー・リーグ(OHL)に所属し、オンタリオ州キッチナーを本拠地とする名門ジュニアチームである。アル・マキニスは1980年から1983年まで在籍した。
特に1981–82シーズンには、ディフェンスマン(DF)でありながらレギュラーシーズン計68試合で92ポイント(25ゴール、67アシスト)という驚異的なスタッツを叩き出し、チームをOHL優勝、そしてカナダのジュニア王座決定戦であるメモリアル・カップ制覇へと導いた。
強烈なスラップショットを武器に攻撃型DFとしての才能を完全に開花させた、彼の原点とも言える育成チームである。
2. 1994年にオファーシートを機にセントルイスへ移籍
1994年のオフシーズンに、制限付きフリーエージェント(RFA)となっていたアル・マキニスが、セントルイス・ブルースから提示されたオファーシート(他チームのフリーエージェント選手と結ぶ契約合意書)にサインしたことを発端とする移籍劇である。
本来、カルガリー・フレームズ側にはブルースと同条件の契約を提示してマキニスを引き留める権利(マッチング権)があったが、財政面の事情などから引き留めを断念し、トレードの形でブルースへの移籍が成立した。
この際、フレームズはマキニスを放出する見返りとして、ブルースからDFのフィル・ハウズリーと将来のドラフト上位指名権を獲得している。
フレームズの通算得点記録を多数保持していた絶対的な看板ディフェンスマンの退団は、1989年のスタンレー・カップ優勝メンバーからなる黄金期チームの解体と、一つの時代の終わりを象徴する重大な転換点となった。
アル・マキニスがどれほど恐るべき攻撃型ディフェンスマンであったか、そしてなぜ殿堂入りを果たしたのかが凝縮された映像です!
最後は地元出身のマイク・バーノンです。ウェスタン・リーグのカルガリー・ラングラーズを経て、ドラフトではマキニスの41人後に指名されています。
1985-86シーズン途中に昇格し、ルーキー年のウィニペグ戦の活躍で、ジェッツとのプレーオフ1回戦の先発に抜擢。初のスタンレー・カップ・ファイナルへチームを導きました。
【注釈3】
1. ウェスタン・リーグのカルガリー・ラングラーズ
カナダの3大主要ジュニアホッケーリーグの一つであるウェスタン・ホッケー・リーグ(WHL)に所属し、アルバータ州カルガリーを本拠地としていたジュニアチームである。
カルガリー出身のマイク・バーノンにとってはまさに地元のジュニアチームであり、1980年から1982年までの2シーズンにわたり正ゴールテンダー(GK)として在籍した。
特に1981–82シーズンには、リーグ最優秀選手に贈られるフォア・ブロンズ・トロフィーと、最優秀GKに贈られるデル・ウィルソン・トロフィーをダブル受賞する快挙を達成した。
この活躍が評価され、1981年のNHLエントリードラフトにおいて、アル・マキニスの指名(全体15位)から41番目後となる第3巡目・全体56位でカルガリー・フレームズから指名を受けることとなった。のちに本拠地の街のスターとなる彼の才能が最初に見出された、キャリア初期の極めて重要な育成チームである。
2. ジェッツとのプレーオフ1回戦の先発に抜擢
1985–86シーズン中盤、下部リーグ(AHLのモンクトン・ゴールデンフレイムズ)から呼び出された新人GKのマイク・バーノンが、レギュラーシーズン終盤のウィニペグ・ジェッツ戦で驚異的なパフォーマンスを披露し、その実績を引っ提げてポストシーズンの正守護神の座を勝ち取ったエピソードを指す。
当時のフレームズは、正GKであったレジ・レマランの不調や怪我に悩まされており、プレイオフを勝ち抜くための確固たる守護神を欠いていた。
そこでコーチ陣は、レギュラーシーズンのウィニペグ戦で相性の良さを見せていたルーキーのバーノンを、宿敵ウィニペグ・ジェッツとのプレーオフ第1回戦(スマイス・ディビジョン準決勝)の先発ゴールテンダーに起用するという大胆な抜擢を敢行した。
この起用に見事に応えたバーノンは、ジェッツを相手に圧倒的なセービングを連発してチームをシリーズ突破へ導くと、その勢いのまま次戦で絶対王者エドモントン・オイラーズを撃破した。
最終的にチームを史上初となるスタンレー・カップ・ファイナル進出(モントリオール・カナディアンズに敗退)へと牽引し、1980年代後半に迎えるチーム黄金期の絶対的な正GKとしての地位を完全なものとした、歴史的なターニングポイントである。
正ゴールキーパーの座を守り続けたバーノンは、1980年代黄金期の守護神でしたが、1994年に若手のトレバー・キッドに先発を譲るためデトロイトへトレードされます。
黄金期を支えた超攻撃型プレイヤー(ロバーツ、ニューウェンダイク、フルーリー)
バーノンがトレードされた年、1994年ドラフトで全体12位指名だったのがゲイリー・ロバーツです。彼は1987-88シーズンにフルタイム選手となりました。
ロバーツはチーム史上唯一、1シーズンで50ゴール以上と200ペナルティミニッツ以上を同時達成した選手です。これはNHL史でもわずか4回しかありません。
激しいプレーでケガを重ね、3シーズン近くを欠場しましたが復活を果たし、最終的には移動距離の少ない東地区のカロライナへとトレードされました。
【注釈4】
1. 1シーズンで50ゴール以上と200ペナルティミニッツ以上
ロバーツが1991–92シーズンに達成した真の偉業は、53ゴールを挙げると同時に、激しい肉弾戦の証である反則退場時間「207ペナルティミニッツ(PIM)」を記録したことにある。
これは、高い得点力と凄まじいフィジカルの強さを兼ね備えたプレースタイルである現代の「パワーフォワード」の概念を一人で決定づけた歴史的スタッツと言われている。
この「同一シーズンに50ゴール以上、かつ200ペナルティミニッツ以上」という驚異的な記録は、NHLの長い歴史においてもロバーツやケビン・スティーブンス(ピッツバーグ・ペンギンズ)、キース・カチャックらを含め、リーグ史上わずか4回(4例)しか達成されていない極めて稀有な記録である。
2. 激しいプレーでケガを重ね、3シーズン近くを欠場
ロバーツの持ち味であった、激しいフォアチェック(前線からのボディチェック)や敵陣ゴール前での激突を厭わないプレースタイルの代償として被った、深刻な首の怪我(頸椎および神経の損傷)と、そこからの奇跡的なカムバックを指す。
ロバーツは首の負傷の悪化により、1994–95シーズンはわずか8試合、翌1995–96シーズンも35試合の出場にとどまった。症状は非常に深刻で一時は腕の感覚を失うほどであり、1996年のプレーオフを欠場したのち、30歳の若さで一度は現役引退を表明した。
続く1996–97シーズンは丸ごと全休することとなり、実質3シーズン近くにわたってまともにプレーできない空白期間を経験した。しかし、首の手術を経て、独自の厳格なスポーツ科学・栄養学に基づく過酷なリハビリを成し遂げて神経機能を回復させた。
1997–98シーズンにカロライナ・ハリケーンズの選手として奇跡の現役復帰を果たすと、その後はトロント・メープルリーフスなどでも中心選手として再ブレイクし、最終的に42歳まで第一線で現役を続けるという、アイスホッケー界屈指の不屈の復活劇を遂げた。
1985年2巡目指名のジョー・ニューウェンダイクは、コルゲート大学で活躍し1986-87シーズン後にプロ入り。最初の2年は圧倒的で、1987-88年に51ゴール92ポイント、翌年に51ゴール82ポイント、その後も2年連続で45ゴールを達成し、トップ6の理想的センターとなりました。
安定感と勝負強さを誇った彼は1995年、契約問題を機に、ジュニア界のスターだったジャローム・イギンラの権利を獲得するトレードの一部として移籍します。
【注釈5】
1. ジャローム・イギンラの権利を獲得するトレードの一部として移籍
1995年12月19日に成立した、カルガリー・フレームズの看板センターであったジョー・ニューウェンダイクと、ダラス・スターズの超大物有望株(プロ入り前のジュニア選手)であったジャローム・イギンラらを中心とする、NHLの歴史を大きく揺るがした世紀の大型トレードを指す。
当時、ニューウェンダイクはチームとの契約更新(年俸額や契約期間)を巡って激しく対立しており、ホールドアウト(契約合意に達するまでチームへの合流や試合出場を拒否する行為)を行っていた。
レギュラーシーズンが開幕しても解決の糸口が見えなかったことから、チーム側は彼を保持し続けることを断念し、トレード市場へと出す決断を下した。
この際、交換相手として白羽の矢が立ったのが、1995年のNHLエントリードラフトでダラス・スターズから第1巡目(全体11位)指名を受け、当時ウエスタン・ホッケー・リーグ(WHL)のカムループス・ブレイザーズで「ジュニア界のスター」として圧倒的な実力を示していた18歳のジャローム・イギンラであった。
フレームズはニューウェンダイクをダラスへ放出する見返りとして、イギンラの交渉権(保有権)と、ディフェンスマンのコーリー・ミルンを獲得した。
この移籍は、双方のチームにとって歴史的な大成功をもたらしたと言われている。ダラス・スターズへ移籍したニューウェンダイクは、強力なセンターとしてチームを牽引し、1999年のスタンレー・カップ優勝に貢献してプレイオフMVP(コン・スマイス賞)に輝いた。
一方、カルガリー・フレームズへ加入したイギンラは、その後プロ入りを果たすと瞬く間にリーグ屈指のパワーフォワードへと成長を遂げた。後に長年にわたってキャプテンを務め、チームの歴代最多ゴール・最多ポイント記録を塗り替えるなど、フランチャイズの象徴(レジェンド)となった。
契約問題を端緒としながらも、結果としてNHL史に残る「ウィン・ウィン(双方に利益のある)」のトレードとして語り継がれている。
一方、1987年8巡目指名のテオ・フルーリーは、当初マイナーで良い選手になる程度との評価でしたが、嬉しい誤算となりました。
マイナーで結果を残し1988-89シーズン途中に昇格した彼は、10年以上中心選手でした。小柄で闘争心が強く才能にあふれ、時には怒りを爆発させる彼は、1990年代半ばの低迷期における最大の観戦理由でした。
1999年、ロビン・レジアーをチームにもたらすトレードでコロラドへ移籍します。
【注釈6】
1. ロビン・レジアーをチームにもたらすトレード
1999年2月28日にカルガリー・フレームズとコロラド・アバランチの間で成立した、フレームズの生え抜きのスター選手であったテオ・フルーリーを中心とする大型トレードを指す。
当時、フレームズはチームの象徴であり、大黒柱であったフルーリーが同シーズンオフに無制限フリーエージェント(UFA)となるのを控えており、財政面(サラリーキャップや資金難)の都合から彼と再契約を結ぶことが極めて困難な状況にあった。
フリーで退団されるのを防ぐため、チーム側はシーズン途中のトレードデッドライン(移籍期限)を前に、フルーリーを放出する苦渋の決断を下した。
この際、アバランチ側から見返りとして獲得した交換パーツの中に、当時トッププロスペクト(最有力新人候補)として大きな期待を背負っていた18歳の若きディフェンスマン、ロビン・レジアー(Robyn Regehr)が含まれていた。
このトレードの全容は、フレームズがテオ・フルーリーとクリス・ディンをアバランチへ放出する代わりに、ロビン・レジアー、レネ・コーベット、ウェイド・ベラック、および2000年のドラフト2巡目指名権を獲得するというものであった。
この移籍によって加入したレジアーは、その後にプロ入りを果たすと、チームにとって文字通り「守備の要」として大ブレイクすることとなった。
強靭なフィジカルを活かした極めてタフで堅実な守備型ディフェンスマンとして頭角を現し、2003–04シーズンのスタンレー・カップ・ファイナル進出(準優勝)に大きく貢献した。
結果として、11シーズンにわたりフレームズの主力として通算826試合に出場し、チームの次世代の屋台骨を支え続けた偉大なレジェンドを誕生させたという意味で、チームの近代史における最重要トレードの一つとして位置づけられている。
テオ・フルーリーのキャリアを振り返るハイライト映像です。彼のスピード、小柄な体格をものともしないアグレッシブなプレー、てんこ盛りです。
チームに安定をもたらした万能の戦士たち(スティルマン、モリス)
続いてオンタリオ・リーグ出身のコーリー・スティルマンです。
彼は1992年ドラフト全体6位で指名されました。スティルマンには突出した武器があったわけではありませんでしたが、彼の偉大さはゲーム全体のバランスの良さにあったと言えます。あらゆることを高いレベルでこなせる選手でした。
彼は役割や状況に応じて自分のプレースタイルを調整できる非常に器用な選手でした。フレームズでは約5年半にわたりプレーし、2000-01シーズン途中にセントルイス・ブルースへとトレードされます。この取引によって、クレイグ・コノリーがカルガリーへ加入することになりました。
【注釈7】
1. オンタリオ・リーグ
世界最高峰のプロホッケーリーグであるNHLへ数多くのスター選手を輩出している、カナダの最上級ジュニアホッケーリーグ(マルチ・プロヴィンシャル・ジュニア・A・リーグ)の一つであり、正式名称は「オンタリオ・ホッケー・リーグ(OHL)」である。
カナダの3大主要ジュニアリーグの総称である「カナディアン・ホッケー・リーグ(CHL)」の傘下に位置づけられており、主に16歳から21歳までの将来有望な若手選手が所属して技術を磨く。
カルガリー・フレームズにとっても極めて重要なスカウティングおよびドラフトの補強源となっており、歴史的に同リーグ出身者を好んで指名してきた経緯がある。
コーリー・スティルマンは、同リーグのウィンザー・スピットファイアーズおよびピーターボロ・ペッツでポイントを量産する圧倒的な活躍を見せた実績が評価され、1992年のNHLエントリードラフトでフレームズから全体6位という極めて高い順位で指名を受けることとなった。
2. クレイグ・コノリー
2001年3月13日に成立した、コーリー・スティルマンとの交換トレードによってセントルイス・ブルースからカルガリー・フレームズへと加入した、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身のセンター(FW)である(※英語表記はCraig Conroyであり、一般的には「クレイグ・コンロイ」と発音・表記されることが多い)。
当時のフレームズは低迷期からの脱却を図るべく、攻守のバランスに優れ、特に守備意識が高くリーダーシップに溢れる実力派センターの獲得を熱望していた。
そこでチーム側は、約5年半にわたり主力として貢献していたコーリー・スティルマンをブルースへ放出する代わりに、コノリーとドラフト7巡目指名権を獲得するトレードを敢行した。この移籍はチームにとって大成功となり、コノリーは加入直後からトップラインのセンターとして定着した。
卓越した守備戦術(フォアチェック)と高いホッケーIQを発揮し、エースのジャローム・イギンラと抜群のケミストリー(連携)を構築して彼の才能を完全に開花させた。2003–04シーズンにはキャプテンとしてチームを牽引し、悲願であったスタンレー・カップ・ファイナル進出(準優勝)の原動力となった。
現役引退後もチームのフロント(経営・編成部門)に入り、のちにゼネラルマネージャー(GM)に就任するなど、フランチャイズの近代史において多大な影響力を持ち続ける最重要人物の一人である。
次はデレク・モリスです。ウェスタン・リーグの選手として1996年ドラフト全体13位で指名された彼は、セントラル・スカウティングの評価よりも少し上の順位で選ばれたため、やや予想より高い順位での指名となりました。しかし1997-98シーズンに19歳でレギュラーを掴みます。
【注釈8】
1. セントラル・スカウティングの評価
NHLが公式に運営しているスカウト専門組織「NHLセントラル・スカウティング・ビューロー(NHL Central Scouting Bureau)」が、ドラフト対象となる世界中の若手有望選手(プロスペクト)を調査・分析して発表する公式の中央順位評価(ランキング)を指す。
同組織は、北米の主要ジュニアリーグ(WHL、OHL、QMJHL)や大学リーグ、さらには欧州のプロ・ジュニアリーグに至るまで、世界各地に専門のスカウト陣を配置している。
毎年、ドラフト開催に向けて複数回にわたり、スケーティング能力、ホッケーIQ、フィジカル、将来性などの多角的な基準から選手を網羅的にスカウトし、「北米のフォワード/ディフェンスマン」「北米のゴールテンダー」「欧州のフォワード/ディフェンスマン」「欧州のゴールテンダー」といったカテゴリ別の最終評価ランキングを作成して全チームに提供している。
このランキングは、NHL全チームがドラフト指名戦略を練る上での「最も客観的かつ標準的な基準(ものさし)」として広く活用されている。
そのため、デレク・モリスが1996年のドラフトでカルガリー・フレームズから第1巡目・全体13位という高順位で指名された際、この公式ランキングが予測していた順位よりも前倒しでの選出であったことから、「やや予想より高い順位での指名(指名順位の繰り上げ・リーチ)」と評されることとなった。
しかし、フレームズ独自のスカウティング眼は正しく、モリスは翌1997–98シーズンに19歳の若さでNHLのレギュラーポジションを掴み、長年にわたり万能で効率的なディフェンスマンとしてチームに貢献する結果を残した。
19歳でNHLのレギュラーとなったモリスは、すぐに自分自身のプレースタイルとリズムをつかみました。
リーグ屈指のディフェンスマンというわけではありませんでしたが、長年にわたりチームにおいて非常に万能で、かつ効率的な守備者として貢献を続け、2002年オフにコロラドへ移籍します。
モリスが2002年オフにフレームズからコロラド・アバランチへとトレードされたことで、チームは新たな守備の柱を探すことになります。
このように、スティルマンもモリスも、派手さはなくとも当時のチームの屋台骨を支え、後に重要なトレードに関わる貴重なカナダ人ドラフト指名選手でした。
近年のカルガリーを牽引したスターたち(ファヌーフ、モナハン)
ウェスタン・リーグのレッドディア・レベルズでスターだったディオン・ファヌーフは、2003年ドラフト全体9位で指名されました。
2005-06シーズンからフルタイムで参戦すると素晴らしい活躍を披露し、ルーキーながらカルダー賞(シーズン最優秀新人選手に授与される賞)争いに加わり、すぐにノリス賞候補へと成長しました。
しかし2010年にはチーム内での評価が低下し、マット・ステイジャン(その他の控え選手も含む)をカルガリーへ送る大型トレードによってトロントへ移籍しました。
【注釈9】
1. ウェスタン・リーグのレッドディア・レベルズ
カナダの最上級ジュニアホッケーリーグ(マルチ・プロヴィンシャル・ジュニア・A・リーグ)の一つである「ウェスタン・ホッケー・リーグ(WHL)」と、同リーグの東地区(セントラル・ディビジョン)に所属し、アルバータ州レッドディアを本拠地とするジュニアホッケーチーム「レッドディア・レベルズ(Red Deer Rebels)」を指す。
ウェスタン・リーグ(WHL)は、オンタリオ・リーグ(OHL)などと並び、カナダの3大主要ジュニアリーグ(CHL)の傘下組織としてNHLへ数多くのスター選手を送り出している。
レッドディア・レベルズは1992年に創設され、ディオン・ファヌーフが在籍した2000年代初頭にはリーグ屈指の強豪として君臨していた。
ファヌーフは同チームのディフェンスマンとして、激しいフィジカルプレーと高い攻撃力を兼ね備えた若きスターとして大ブレイクし、その圧倒的な実績が評価されて2003年のNHLエントリードラフトでカルガリー・フレームズから全体9位というトップ10以内の高順位で指名を受けることとなった。
2. トロントへ移籍
2010年1月31日にカルガリー・フレームズとトロント・メープルリーフスの間で成立した、当時チームの若き看板ディフェンスマンであったディオン・ファヌーフを中心とする、計7選手が絡んだ世紀の大型トレードを指す。
ファヌーフは2005–06シーズンのデビュー以降、新人賞(カルダー賞)争いや最優秀ディフェンスマン賞(ノリス賞)候補に名を連ねるなど輝かしい活躍を見せていたが、次第にプレースタイルの荒っぽさやディフェンスゾーンでのミスが目立つようになり、さらにロッカールーム内での不和や素行面が問題視されたことで、チーム首脳陣や首脳部からの評価が著しく低下していた。
そこでチーム側は、チームの刷新とセンター陣の補強、そしてサラリーキャップ(総年俸抑制)の調整を目的として、ファヌーフを急遽放出する決断を下した。
このトレードの全容は、フレームズがディオン・ファヌーフ、フォワードのキース・アムリー、およびゴールテンダーのウェイン・プリモーをメープルリーフスへ放出する代わりに、メープルリーフスからセンターのマット・ステイジャン(Matt Stajan)、ディフェンスマンのイアン・ホワイト、フォワードのニクラス・ハグマンとジャマール・マイヤーズの計4選手を獲得するというものであった。
移籍のメインパーツとしてカルガリーへ加入したマット・ステイジャンは、派手さこそないものの、堅実な守備と高いホッケーIQを持つ優れたセンターとして機能した。結果としてステイジャンは、フレームズで約9シーズンにわたり主力として通算557試合に出場し、チームの困難な過渡期を支え続ける重要なコア選手となった。
一方でトロントへ移籍したファヌーフは、直後にメープルリーフスのキャプテンに就任するなど新天地の顔として新たなキャリアを築くこととなり、双方のチームの力関係やその後の編成戦略に極めて大きな影響を与えた歴史的取引である。
在籍期間は長くなかったものの、カルガリーにいた時期のファヌーフは本当に、本当に素晴らしいディフェンスマンでした。
最後は2013年ドラフト全体6位指名のショーン・モナハンです。その年チームが獲得した3人の1巡目指名選手の最初の1人でした。オンタリオ・リーグのオタワ67’sでスターだったモナハンは、指名直後からチームに加入し、非常に早くNHLへ適応しました。
彼は9シーズンにわたりトップ6の中心選手として活躍しました。ジョニー・ゴードローとの素晴らしい連携を築き上げ、それがチームを2度のプレーオフ2回戦進出へと導く原動力となったのです。しかし度重なるケガが彼のキャリアに深刻な影響を与えることになってしまいました。
【注釈10】
1. 3人の1巡目指名選手
2013年のNHLエントリードラフトにおいて、カルガリー・フレームズが第1巡目で指名・獲得した3人の有望選手(プロスペクト)を指す。
当時のチームは本格的な再建期(リビルディング)に突入しており、将来のコア(中核)となる若い才能を確保するため、トレード等を通じて複数の1巡目指名権を集めていた。このドラフトでチームが獲得した3選手は以下の通りである。
ショーン・モナハン(Sean Monahan):全体6位指名。オタワ67’s出身のセンター(FW)。
エミール・ポワリエ(Émile Poirier):全体22位指名。ガティノー・オリンピックス(QMJHL)出身のライトウィング(FW)。
モーガン・クリマック(Morgan Klimchuk):全体28位指名。レジャイナ・パッツ(WHL)出身のレフトウィング(FW)。
結果として他の2選手はNHLに定着できなかったが、モナハンだけが即座にロースター入りを果たし、長年にわたりエースセンターとして大ブレイクを遂げることとなった。
2. オンタリオ・リーグのオタワ67’s
カナダの最上級ジュニアホッケーリーグ(マルチ・プロヴィンシャル・ジュニア・A・リーグ)の一つである「オンタリオ・ホッケー・リーグ(OHL)」に所属し、オンタリオ州オタワを本拠地とする伝統あるジュニアホッケーチーム「オタワ67’s(Ottawa 67’s)」を指す。
オンタリオ・リーグ(OHL)は、チームが歴史的に多くのカナダ人選手を補強してきた極めて重要な育成源の一つである。オタワ67’sは1967年に創設され、数多くの名選手をNHLへ輩出してきた名門として知られる。
ショーン・モナハンは同チームにおいて、卓越した得点感覚と高いホッケーIQを武器にエースセンターとして大活躍し、ドラフト前年にはリーグ屈指のトッププロスペクトとしてスカウト陣から高い評価を受けた。その実績が認められ、2013年のドラフトでチームから全体6位指名を受ける至った。
3. 度重なるケガ
モナハンはデビューから高い耐久性を誇り得点を量産していたが、激しいプレースタイルの代償として、キャリア中盤から両手首の手術、複数回にわたるヘルニア(腹部および鼠径部)の手術、さらには両股関節の手術など、アスリートとして選手生命に関わる深刻な大ケガと手術を毎年繰り返すこととなった。
これにより、本来の強みであった爆発的なスケーティング能力やゴール前での力強さが徐々に失われ、2021–22シーズンには成績が著しく低下した。
チームは、彼の高額な給与が圧迫するサラリーキャップ(総年俸抑制)の問題をクリアするため、2022年オフに将来のドラフト1巡目指名権を「見返り(資産)」として添える形で、彼をモントリオール・カナディアンズへトレード放出する苦渋の決断を下すこととなった。
ケガの影響に苦しんだモナハンは、2022年にはチームのサラリーキャップ(総年俸抑制)対策のため、モントリオールへとトレードされる形で移籍となりました。
彼もまた、全ドラフトの53%をカナダ出身者から選んできたチームの歴史を象徴する、近年のコアセンターの1人でした。
まとめ
カルガリーがこれまでの歴史の中で紡いできたカナダ人選手への深い信頼は、ドラフトの数値が証明する通り、チームの確固たる基盤となっています。
アトランタ時代の黎明期から黄金期の栄光、誠に激動だった近年へと至るまで、生え抜きのスターたちが残した偉大な足跡は、今もファンの胸に刻まれています。彼ら最高の10人が築いた伝統は、これからもチームが未来へ向けて歩むための大いなる道標であり続けることでしょう。

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