長野五輪金メダルが、アメリカ女子ホッケーの未来を決めた!【後編】

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はじめに

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引用元:NHL.com「U.S. gold medal in 1998 Nagano Olympics put women’s hockey ‘on the map’」。

1枚の写真から… 

 彼女たちは1998年のオリンピック選手と一緒に写真を撮るために列をなし、メダルや星を目に留めていました。若いダガンがグレッチェン・ウリアンの隣に立っている写真があり、ウリアンの妹がそのウィーティーズの箱を持っています。 

グレッチェン・ウリアン=コネチカット州マールボロ出身。ダートマス大学時代、アイビーリーグ年間最優秀選手(1992–93、1993–94)となる。長野オリンピック金メダル、世界選手権(1997)銀メダル獲得に貢献。 

 ケンドール・コイン・スコフィールドはグラナートのホッケーキャンプの常連でした。ラムルー家の双子、モニークとジョセリンはリサ・ブラウン−ミラーとよく会うようになりました。 

ケンドール・コイン・スコフィールド=米国女子アイスホッケー・チームのメンバーであり、プロのアイスホッケー現役選手。IIHF世界女子選手権で6つの金メダルを獲得、2018年冬季オリンピックでも金メダルを獲得。 

モニーク・ラムルー=元アメリカのアイスホッケー選手であり、作家。2018年冬季オリンピック決勝でモニークが同点ゴールを決めた後、双子の妹のジョセリンがゲームを決めるシュートアウトゴールを決めて金メダルを獲得。 

 スポーツにおける平等を推進する労働組合、すなわちプロ女子ホッケー選手協会と1年間競い合い、2021年に引退。姉妹は、主に故郷のノースダコタ州で、困窮している子供たちのための教育および課外プログラムに資金を提供するラムルー・ファウンディションを設立し、活動中。 

 2017年1月、NCAA Today’s Top 10 Awardの受賞者となる。2020年、アメリカン・ホッケー・リーグの関連会社であるロックフォード・アイスホッグズの選手育成コーチとして、シカゴ・ブラックホークスに加入。 

ジョセリン・ラムルー=姉と同様、2010年、2014年、そして2018年の冬季オリンピックでアイスホッケー女子代表チームのメダル獲得に貢献。ジョセリンは、ミネソタ大学で1シーズン、ノースダコタ大学で3シーズン、NCAAホッケーでプレー。姉とともにプロ女子ホッケー選手協会と1年間競い合い、2021年に引退後も姉と活動を共にしている。 

リサ・ブラウン−ミラー=米国女子代表チームの創設以来のメンバー。6つのチーム(1990 年、1992年、1994年、1995年、1996年、1997年)に出場したわずか3人の選手のうちの1人。 

 1991年から1996年までプリンストン大学女子アイスホッケー・チームのヘッドコーチを務め、1994–95シーズン、チームはアイビーリーグのチャンピオンに。2019年、ミシガン州にあるアクィナス・カレッジのヘッドコーチに就任し、後進を育成中。 

 ナイトにとって、グラナートのキャンプで、自分が持ってきた木のスティックを全部壊してしまったことに気づいた時でした。グラナートは自分のものを渡しました。 

(ヒラリー・)ナイト=米国代表チームで、IIHF世界女子選手権で8つの金メダルを獲得し、 2018年冬季オリンピックでも金メダルを獲得した現役選手。PWHPA(Professional Women’s Hockey Players Association)で活躍中。 

 「彼女はおそらく、とても些細なことなので、覚えていないでしょう」とナイトは述べました。「しかし、子供の私にとって、彼女のスティックに触れることさえ、『ああ、よかった』という感じでした」。 

レジェンドとの出会いが、全てを変えた 

 彼女達はUSAホッケーを前進させ、主導権を握る女性達でした。 

 コイン・スコフィールドはシカゴ・ブラックホークスの選手育成コーチ兼ユース・ホッケー成長スペシャリスト、ダガンはニュージャージー・デビルズの選手育成ディレクターをそれぞれ務め、NHLに進出する女性達なのです。 

 ダガンが最初にNHLでのキャリアを目指すと決めた時、最初に電話をかけたのが、グラナートでした。 

 1998年、10歳の時に見た金メダルは、彼女にとって「人生を左右するもの」だったのです。彼女はウリアンに会えたこと、メダルをかけてジャージを着たこと、敬愛の念を込めて話してくれました。 

 「それが私の人生を変えたのです」とダガンは語りました。「アメリカ代表としてプレーし、オリンピックに出ることを目標にした時を思い出すと、あの10歳の時があったからこそだと思います。 

 その夜、私は出かけていき、町の人全員にそのことを伝えました。オリンピックに行くつもりだったし、アメリカ・チームのキャプテンとして金メダルを取るつもりだったし、その夢を中心に人生を築きました」と語ってくれました。 

もし金メダルを獲得していなかったら… 

 1998年のチームが金メダルを獲得していなかったら、アメリカの女子ホッケーがどうなっていたか想像するのは難しいです。 

 この問題は、ナイトとムレツコ、そして同チームのフォワードで、現在ボストン・カレッジ女子ホッケーチームのコーチとして16年目を迎えている、ケイティ・キング・クロウリーが、2002年の金メダルから、フラストレーションと結果が伴わないことによって、USAホッケーが女子への資金提供を取りやめた場合のシナリオまでを考え、この質問に困惑していたのです。 

ケイティ・キング・クロウリー=1998年冬季オリンピックで金メダル、2002年冬季オリンピックで銀メダル、2006年冬季オリンピックで銅メダルを獲得。特に2006年には23ポイントを挙げ、オリンピックのポイントでアメリカ人としては史上1位にランクされている。 

 2007年からボストン・カレッジのヘッドコーチに就任。 

 「分からない」とナイトは言いました。「私たちが、それまでと同じようなユース・プログラムの中で、成長を遂げていたかどうかはわかりません。 

 なぜなら、この勝利によって、より多くのユース・プログラムが声を上げ、「もっと具体的な女子ホッケーチームが欲しい」「ホッケーをする女子や女性にもっと氷を割り当てたい」と言うことが可能になったから、実に興味深い問題だとは思います。 

改めて優勝・金メダルの意義を実感 

 2021年の夏、グラナートは再びホッケーキャンプに戻ってきました。彼女は群衆を見渡して、そこで、どれだけ昔と違っているかを見たのです:彼女が成長していた頃から、1998年の金メダル後の最初のキャンプから、その後のすべての年から。 

 「実はその時、私はイリノイに戻っていたのです」とグラナートは言いました。「そのロビー全体を、チームのロゴをつけた女の子たちが歩いていました。威勢よく、自信満々に歩いていたんですよ。そして、ロビー全体が、そんな女性や若い女の子で埋め尽くされているのです。私は、これはすごいと思いました」。 

 そこには、オリンピック・チームがしたことの証明、どこへたどり着いたかの証明があったのです。 

 「あの勝利で、女子ホッケーは有名になったんです」とナイトは言いました。「もちろん、オリンピックでは初めてだったので、記念碑的なものでした。しかし、もしあのチームが優勝しなかったら、このスポーツがどこに行ってしまっていたか分からないわ。 

 だから、彼女たち全員に感謝しているんです。あのチームのメンバーは、アメリカでスポーツ界全体を背負うことになるとは知らずに(プレーしてくれました)。きっと、あのチームは、ホッケーの試合に勝つために現れたのでしょう」と述べました。 

まとめ 

  冒頭にも触れましたように、アイスホッケー女子日本代表も、米国代表に負けじと頑張っているのですが、試合の勝敗だけでなく、様々な面で苦戦している感は否めません。 

 「スマイル・ジャパン」と愛称を付けてもらっても、それを認知している人がどれだけいるのか。むしろ、アイスホッケーの激しさと「スマイル」の間にズレがあるように思うのは、自分だけでしょうか。 

 日本の狭い国土に、いろいろなスポーツの競技場を詰め込むには無理がありますし、バックアップする大企業の体力を削いでまでやる必要があるのか、という考えもあります。 

 今回の記事を読むと、「国の規模と余裕(面積は言うに及ばず、経済面も精神面も)」を痛感せざるを得ませんでした。  

讃岐猫
讃岐猫

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!

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