NHL1970年代ドラフトで輝いた名選手の実力と歴史を振り返る

アイスホッケー名選手

はじめに~NHLの歴史に刻まれたスターたち✨

 NHLには、数えきれないほどの名選手が存在しますが、その中でも特に注目したいのが1970年代に活躍した選手たち。今回はそんな選手たちの中から、日本ではちょっとマイナーかもしれませんが、ファンなら知っておきたい名プレーヤーたちを紹介します!

参照記事:ESPN公式サイト「The best NHL draft pick ever at every slot from No. 1 to 224

今回は上記ブログ記事の続編です。

「最高の選手」ってどうやって決めるの?🤔

 毎年のドラフトのすべての指名順位から、1人以上のNHL選手が生まれています。中には伝説的な選手もいるし、トリビアの答えになるような選手もいます。今年初め、ESPNのベン・ソラック記者は、NFLドラフトの各指名順位を代表する選手を1人ずつ選びました。

 今回、NHLドラフトで同じことをやってみようと思ったのです。今回のランキングを作成するにあたって、明確な基準を設けていて、NHLドラフトの各指名順位(1位から224位2まで)を代表する選手を1人ずつ選ぶことにしたんです📝。

 対象は、リーグが拡張された1967年以降(つまり、リーグ拡張後)の選手を対象にランク付けを行っています。

 選定の基準は、「最高」を「最も才能がある」と「最も成功した」の組み合わせとして定義し、統計的なインパクト、NHLアワードの受賞歴、キャリアの功績を考慮に入れて「最高」の選手を定義しました。そして、各順位には1人だけ代表選手を選び、同順位は設けませんでした。

 また、選定にはいくつかの注意点があります。一度ドラフトされた後に再びドラフトに入った選手については、2度目の指名を基準にしています。評価の対象はNHLでの功績のみです。

 最初の100位までの選手については選定理由を詳しく説明し、それ以降は特に議論になりそうな選手や注目すべき選手について、いくつかピックアップして解説しています。

【追記】今回の記事も、前回同様、70年代にドラフト指名された選手を中心としています。

32.トニー・マケグニー(LW, バッファロー・セイバーズ/1978年)
※選手名の前の数字はドラフト指名順位、LW=左ウィング、指名チーム、指名年の順。

 まずはマケグニー。彼は13年間で912試合に出場し、320ゴールを決めた実力派です。1987-88シーズン、セントルイス・ブルース在籍時にはNHL史上初の黒人選手1として、シーズン40ゴールを達成しました。これはまさにNHL史に残る先駆者の証です🔥

35.ペレ・リンドバーグ(G, フィラデルフィア・フライヤーズ/1979年)
※G=ゴールテンダー。

 続いて、リンドバーグ。1985年にはフライヤーズをスタンレーカップ決勝に導き、シーズン40勝を挙げてヴェジナ・トロフィーを獲得。しかしその5か月後、26歳の若さで自動車事故により亡くなってしまうという悲劇2がありました。

 翌1986年、ファン投票によりオールスターゲームに死後選出されています。彼のNHL出場はわずか157試合であり、同じ35位指名3のマルク=エドゥアール・ヴラシック(サンノゼ・シャークス/2005年)やマット・カレン(アナハイム・ダックス/1996年)と比べれば短命でしたが、リンドバーグの残した輝きは今もフィラデルフィアに色濃く残っています。

 あまりに短く、まばゆいゴールテンダーとしての閃光だったのです。

4ヶ月前にアップされた映像。ペレが事故を起こしていなかったら、フライヤーズは連覇していたかも…、今でもファンの胸に残る「閃光」なのです。

守備の達人たちと知られざるスター選手🏒

36.ロッド・ラングウェイ(D, モントリオール・カナディアンズ/1977年)
※D=ディフェンス

 ラングウェイは「ディフェンス省長官(Secretary of Defense)」という異名が示すように、まさに守備の達人。彼はワシントン・キャピタルズで11シーズンプレーし、15年間のキャリアの中で、ノリス・トロフィーを2回も受賞した史上最高クラスの守備的ディフェンスマンです。

 長年の活躍でホッケー殿堂入りも果たしています。ちなみに、36位指名選手の中でオフェンスで輝きを放ったのは、最多ゴール(394)とポイント(856)を記録した、元レンジャーズおよびキングスのフォワード、トーマス・サンドストロム4です✨

37.マッツ・ナスランド(LW, モントリオール・カナディアンズ/1979年)

 次に紹介するのは「ル・プチ・ヴァイキング(小さなヴァイキング)」ことナスランド。彼の身長は5フィート7インチ(約170cm)と記録されていましたが、カナディアンズで9シーズン活躍し、651試合で634ポイントを記録。

 1986年にはチームをスタンレーカップ制覇に導きました。NHLで過小評価されているニックネームの中でも強烈なインパクトを残しており、彼はまさにニックネーム通りの存在でした!

カナディアンズ26番の選手。12日前にアップされた映像ですが、なぜかケベック・ノルディクス戦で活躍しものばかり。ノルディクスのジャージが見られるのは嬉しいけど…。

ゴールデンシールズの驚きと未来のスター候補たち🌟

39.チャーリー・シマー(LW, カリフォルニア・ゴールデンシールズ/1974年)

 シマーは珍しいゴールデンシールズ指名の選手ですが、彼を選んだ理由は、その珍しさだけではなく、その実力は折り紙付き。712試合で342ゴールを決め、中でもロサンゼルス・キングス時代には2年連続56ゴールを記録しました。

 彼はトリプルクラウンライン5の一員としても知られています。

 なお、近年のスター選手であるアレックス・デブリンカット(シカゴ・ブラックホークス/2016年)やジェイソン・ロバートソン(ダラス・スターズ/2017年)も、まだキャリアの途中ですが、将来的にはランキング入りする可能性が十分にある選手です✨

1979年ドラフトの名コンビと伝説の功績🌟

41.デイル・ハンター(C, ケベック・ノルディクス/1979年)
※C=センター

 1979年ドラフトは名選手がずらりと揃っています。ハンターは「200フィートプレーヤー6」と呼ばれ、攻守にわたってチームに貢献。1,407試合で1,020ポイントを挙げながら、3,365分ものペナルティを受けており、ラフな一面でも有名です。
※1979年ドラフトについては、こちらをどうぞ→⭐️。ホントに名選手が目白押しです。

 激しいプレースタイルはファンの記憶に深く刻まれています。もちろん、ESPNのケビン・ウィークス7(フロリダ・パンサーズ/1993年)をこの順位で称えたい気持ちもありますが、ハンターの実績は明らかに別格。

42.ニール・ブロテン(C, ミネソタ・ノーススターズ/1979年)

 続いてブロテンはハンターのすぐ後に指名され、1979年ドラフトの2巡目最後を飾りました。ノーススターズのスターセンターとして、NHL通算1,099試合で923ポイントを記録。1995年にはニュージャージー・デビルスのスタンレーカップ優勝に貢献しました。

 だが彼の最大のレガシーは、1980年の「ミラクル・オン・アイス8」— アメリカ代表が金メダルを獲得した歴史的な大会のメンバーという偉業も持っています。

モントリオールの守護神とフランス系カナダ人の誇り🇨🇦

44.ギー・カルボノー(C, モントリオール・カナディアンズ/1979年)

 1979年組から、また1人選出されました。カルボノーはその中でも特に光る存在。彼はモントリオール・カナディアンズで2度のスタンレーカップ優勝に貢献し(スターズでも1回優勝)、守備的フォワードに贈られるセルケ・トロフィーを6度のファイナリスト入りのうち3回受賞しました。

 モントリオールの栄光を背負って殿堂入りを果たしています。その活躍は、まさにモントリオールの誇りと言えるでしょう。フランス系カナダ人の守備的センターと言えば、今でも彼の名前があがるくらい抜群の存在感で知られています。

48.マーク・メッシエ(C, エドモントン・オイラーズ/1979年)

 そして、同じく1979年ドラフトのマーク・メッシエは、フォワードとしては27番目に指名されました。その後に1,887ポイントを積み重ね、殿堂入りした超大物。彼のキャリアは1,756試合に及び、694ゴール(1,887ポイント)も記録しています。

 なお、彼のひとつ前にはバンクーバー・カナックスがケン・エラックット(キャリア12試合)というゴールテンダーを指名していますが、メッシエの活躍がそれを完全に上回りました! 少なくともカナックスは最終的にメッシエを手に入れましたので(1997-98〜1999-2000まで3シーズン)、よしとすべきでしょうか……。うん、そうですよね?(プレーオフ出場は無し)

「バトリン・ビリー」と伝説のゴールテンダー🧤

59.ビリー・スミス(G, ニューヨーク・アイランダース/1970年)

 「バトリン・ビリー9」ことスミスは1980年代の典型的な「守護神」スタイルのゴールテンダー。彼は自陣のゴール前をあらゆる手段で守り抜き、ニューヨーク・アイランダースで679試合に出場し305勝を挙げました。

 1983年にはヴェジナ・トロフィーとプレイオフMVPのコーン・スミス賞を受賞。1980年代のアイランダースの4連覇の中で、特に最後の3回の優勝は彼の活躍によるものです。彼の闘志溢れるプレースタイルは、多くのファンに今も愛されています🔥

讃岐猫
讃岐猫

家族で輝くスタストニー兄弟👨‍👦‍👦

83.アントン・スタストニー(LW, ケベック・ノルディクス/1979年)

 スタストニーは、兄のピーター(殿堂入り)や甥のポール10と並ぶホッケー一家の一員。彼らの方が有名かもしれませんが、アントンも9年間、ケベック・ノルディクスで650試合に出場し636ポイントを記録しました。 全てノルディクスのユニフォームでプレーしています。

 面白いエピソードとしては、1978年にフィラデルフィア・フライヤーズから198位で指名されましたが、当時19歳11だったためNHLから指名が無効とされたこともありました。若さゆえの挑戦、なかなか面白いですよね😉

100位以下の選手はこちら

103.Thomas Steen, C, Winnipeg Jets (1979)
109.Paul MacLean, RW, St. Louis Blues (1978)
139.Pat Boutette, C, Toronto Maple Leafs (1972)
144.Garry Howatt, LW, New York Islanders (1972)
153.Craig MacTavish, C, Boston Bruins (1978)

【追記】
トーマス・スティーンは、1979年のNHLドラフトでウィニペグ・ジェッツから全体103位で指名され、1981年から1995年までの14シーズンにわたり同チームでプレー。キャリア通算264ゴール、553アシスト、817ポイントを記録し、ウィニペグ・ジェッツの殿堂入りを果たしている。また、スウェーデン代表としても活躍し、カナダカップに3度出場。

ポール・マクリーンは、1978年のドラフトでセントルイス・ブルースから全体109位で指名され、1981年から1991年までの10シーズンにわたりプレー。キャリア通算324ゴール、349アシスト、673ポイントを記録し、1985年にはオールスターゲームに出場。また、フランス出身の選手としてはNHLで最も多くのポイントを記録している。

パット・ブーテットは、1972年のドラフトでトロント・メープルリーフスから全体139位で指名され、1975年から1985年までの10シーズンにわたりプレー。キャリア通算171ゴール、282アシスト、453ポイントを記録し、1981年の世界選手権ではカナダ代表として出場。

ギャリー・ハワットは、1972年のドラフトでニューヨーク・アイランダーズから全体144位で指名され、1973年から1984年までの12シーズンにわたりプレー。キャリア通算112ゴール、156アシスト、268ポイントを記録し、アイランダーズのキャプテンとしても活躍。

クレイグ・マクタヴィッシュは、1978年のドラフトでボストン・ブルーインズから全体153位で指名され、1979年から1997年までの18シーズンにわたりプレー。キャリア通算213ゴール、267アシスト、480ポイントを記録し、1994年にはエドモントン・オイラーズのキャプテンとしてスタンレーカップを制覇。

まとめ

 1970年代のNHLドラフトで輝いた選手たちは、それぞれの個性と実力でホッケー界に大きな足跡を残しました。歴史に名を刻んだ彼らの活躍は今も色あせず、多くのファンに愛されています。彼らの挑戦と栄光を振り返りつつ、未来のスターたちにも期待したいですね!🏒🔥

讃岐猫
讃岐猫

【註釈】

  1. NHLにおける黒人選手の歩みは「最初の突破—その後の遅い前進—現在の課題と取り組み」という流れで理解できる。1958年1月18日、ウィリー・オリーがボストン・ブルーインズでデビューし、NHL史上初の黒人出場選手として氷上の人種の壁を破ったが、それでも長年にわたりリーグ全体の多様性は非常に限られたままだった。

     その後もポール・ジェイコブズやフレッド・ササカムースら初期の先駆者たちがいたものの、白人中心の文化や観客からの人種差別、環境的・経済的な参入障壁が根強く残っていた。こうした構造的な障壁には、用具やアイス代など参加コストの高さ、地域レベルでの露出不足、差別的扱いへの懸念などが含まれ、若年層の裾野拡大を妨げている。

     そうした状況の中で個々の選手が歴史的な足跡を残してきた。トニー・マケグニーは1987–88シーズンにセントルイス・ブルース在籍時、NHL史上初めてシーズン40ゴールを記録した黒人選手として大きな節目を作り、以後ジャローム・イギンラやP.K.サバンらがスター選手として活躍することで「黒人選手がトップパフォーマンスを示せる」ことが可視化されていく。

     近年は選手自身や団体による変化の試みも活発。2020年には現役・元選手が主体となって人種差別と闘うための「Hockey Diversity Alliance(ホッケース多様性同盟)」が立ち上がり、選手発信でリーグや地域コミュニティに変化を促す動きが強まっている。

     これに対しリーグ側も「Hockey Is For Everyone」などの包括プログラムで草の根の参加促進や啓発活動を行っているが、選手や専門家の間では「見せかけの取り組みにとどまらず、参入の経済的障壁や場面ごとの差別対応をより実効的に変える必要がある」という指摘が根強くある。
    ↩︎
  2. 1984-85シーズン、スウェーデン出身のゴーリー、ペレ・リンデバーグはフィラデルフィア・フライヤーズをスタンレーカップ決勝へ導き、リーグ最多の40勝を挙げてヴェジナ・トロフィーを受賞。これはヨーロッパ生まれのゴールテンダーとして初の快挙だった。その後、1985-86シーズン開幕直後もチームは快進撃を続ける中、リンデバーグは開幕8試合を6勝2敗の成績を挙げていた。

     ところが1985年11月10日未明、チームのパーティー会場を出たリンデバーグはニュージャージー州ソマーデール近くの急カーブで自ら運転するポルシェが制御不能となり、校舎前のコンクリート壁に激突。血中アルコール濃度は当時の法定上限(0.10)を大きく超える0.24と推定された。

     事故後、脳幹を中心に重いダメージを負った状態で搬送され、宣告された脳死状態を受け、家族が到着した翌11日に生命維持装置を外され、その日のうちに死亡。

     その悲劇の中でも、フライヤーズファンは彼の最後の栄光として1986年のNHLオールスター戦へ追悼の意味を込めた選抜を行い、リンデバーグはファン投票で最多支持を得て、史上初となるオールスターゲームへの死後選出を果たした。

     プロ記者協会代表は「ファンの判断は賢明だった。これは質を伴った行為だ」と語りつつも、「記者協会の選考では選ばれなかっただろう」と述べている。
    ↩︎
  3. ヴラシックはサンノゼで長年にわたり守備的な中核を務め、レギュラーシーズンで1,300試合以上に出場して84ゴール・295アシストの通算379ポイントを記録した。

     一方カレンは21シーズンに及ぶキャリアで1,500試合超に出場し、266ゴール・465アシストの計731ポイントを挙げ、2006年・2016年・2017年の計3度のスタンレーカップ優勝を経験している。
    ↩︎
  4. 優れたオフェンス力でその存在感を際立たせた名選手。NHLでは15シーズンにわたって983試合に出場し、394得点、462アシストで合計856ポイントを記録。

     その堅実な得点能力は、同じ順位指名選手としての中では群を抜いており、プレーオフでもロサンゼルス・キングスの一員として活躍し、1997年にはデトロイト・レッドウィングスでスタンレーカップ優勝も果たしている。
    ↩︎
  5. 1979-80シーズンにロサンゼルス・キングスのマルセル・ディオンヌ(センター)、チャーリー・シマー(左翼)、デイブ・テイラー(右翼)が結成したフォワードラインで、「その名にふさわしく」強烈な得点力を誇った伝説の一角。

     彼らが共にプレーした1980-81シーズンには、1ラインとしては史上初めて、3選手全員が100ポイント超を達成し、合計ポイント328に到達。この快挙はリーグ史に刻まれる記録だった。ディオンヌはアート・ロス・トロフィー(得点王)を獲得し、シマーはリーグ最優秀ゴール数(56ゴール)に並び、テイラーも90ポイントという高水準の成績を残した。

     その後ディオンヌを中心にチームの攻撃力は高まり続けたが、1984-85シーズンにシマーがブルーインズへ移籍したことで、トリオとしての活動は終息。彼らはその静かな存在感と強力な得点能力で、キングスだけでなくNHLの歴史にも深い印象を刻んだラインだった。
    ↩︎
  6. その名が示すように、標準アイスリンク(全長200フィート)すべてにわたって貢献できる選手を指す。攻撃ゾーンだけでなく、中立ゾーンや守備ゾーンにおいても粘り強くプレーし、フォー・チェックやバック・チェック、コーナーでのパック争い、身体を使ったプレーといった一つひとつの局面に全力を捧げるバランス型の選手像を表現した言葉。
    ↩︎
  7. ウィークスは、1997年10月にNHLデビューを果たし、その後12シーズンにわたり複数のチームを渡り歩いたゴールテンダー。その中にはバンクーバー、ニューヨーク・アイランダース、タンパベイ、カロライナ、ニューヨーク・レンジャーズ、ニュージャージー・デビルズも含まれる。

     特に2002年のスタンレーカップ・ファイナル進出に貢献し、カロライナ・ハリケーンズではプレーオフでの防御率とセーブ率において歴代1位の記録を残すなど、チームの勝利に欠かせない役割を担っている。

     現役引退後は2009年に北米アイスホッケーでは初めての黒人アナリストとなり、CBC「Hockey Night in Canada」やNHL Networkで色彩コメントを務めたのち、2021年からはESPNのスタジオ解析者として「NHL Tonight」などに出演。
    ↩︎
  8. 1980年の「Miracle on Ice」は、アメリカが冬季オリンピックでソビエト連邦を破り、金メダルを獲得した歴史的瞬間のこと。アメリカはアマチュア選手が中心で不利とされていたが、監督ハーバート・ブルームの指導の下、4-3でソビエトを打破。

    

 アメリカは決勝でフィンランドにも勝利し、20年ぶりに金メダルを獲得した。この勝利は冷戦時代における象徴的な出来事であり、アメリカスポーツ史における「奇跡」として今も語り継がれている。
    ↩︎
  9. 「‘Battlin’ Billy』というニックネームは、その名が示す通り、ビリー・スミスの氷上での戦闘的で闘志あふれるスタイルに由来する。

     彼はニューヨーク・アイランダーズのゴールを守るにあたって、“クリース(ゴール前)を侵す者には手段を選ばず対抗する”姿勢で知られ、スティックやブロッカーで相手のスケートをガンガン叩き、侵入を物理的に阻止することで恐れられた。

     エドモントン・オイラーズのウェイン・グレツキーを1983年のプレーオフで仕留めた際には、現地紙から「パブリック・エネミーNo. 1(国民の敵)」とあだ名されるほど。

     さらに、敵にペナルティを誘発させる演技や、プレーオフ終了後の握手を拒否するストイックな態度も相まって、「闘うゴールテンダー」の象徴としての地位を確立し、「Battlin’ Billy」という呼称はまさに彼のプレースタイルそのものを体現していたと言える。
    ↩︎
  10. アントンの兄であるピーターは、1976年にモントリオール・カナディアンズに入団し、1979年から1995年までの15シーズンにわたり活躍。キャリア通算977試合で450ゴール、789アシスト、1,239ポイントを記録し、1980年にはルーキー・オブ・ザ・イヤー(カルダー・トロフィー)を受賞。

     さらに、1998年にはホッケー殿堂入りを果たし、2017年には「100人の偉大なNHL選手」に選出されている。

     ピーターの息子であるポールは、2006年のNHLドラフトでコロラド・アバランチから2巡目(44位)で指名され、2006年から2023年までの17シーズンにわたり、アバランチ、セントルイス・ブルース、ウィニペグ・ジェッツ、ベガス・ゴールデンナイツ、カロライナ・ハリケーンズでプレー。

     キャリア通算1,145試合で293ゴール、529アシスト、822ポイントを記録し、2014年にはアメリカ代表としてソチオリンピックに出場。
    ↩︎
  11. 1970年代後半、NHLのドラフト年齢制限は20歳以上とされていたが、これは主に選手の成熟度や契約権の保護を目的とした規定だった。19歳のアントン・スタストニーはこの規定により指名が無効とされた。

     その後、NHLはドラフト年齢制限を段階的に引き下げ、1980年には18歳から20歳の選手がドラフト対象となり、1987年から1991年には18歳と19歳の選手が特定の条件を満たすと1巡目以外でも指名可能となった。

     現在では、NHLドラフトの対象は18歳から20歳の北米選手、または21歳以上で初めてNHLに入団する欧州選手となっている。 ↩︎
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