🏒祖父の背中を胸に氷上へ!スタンレーカップ王者の子孫たちがOB戦で集結✨

アイスホッケー名選手

はじめに

 ホッケーファン必見の心温まるニュースが飛び込んできました!🤩

 スタンレーカップの黎明期を支えた歴史的名選手たち。その血を引く子孫たちが、125年以上の時を経てカナダ・ライフ・センターに集結しました。🏒🇨🇦

 今回は、土曜日の夜に行われたウィニペグ・ジェッツ対モントリオール・カナディアンズのOB戦に合わせて実現した、感動の歴史的再会の様子をお届けします!

参照記事:NHL公式サイト「Stanley Cup descendants reunite for Jets-Canadiens Alumni Game」


👑 伝説のカップを争った2つの家族が氷上でひとつに

 試合前の記念フェイスオフ(パックドロップ)に臨んだのは、歴史的な因縁を持つ4人の子孫たちです。🤝

  • ウィニペグ・ビクトリアズのロブ・ベンソン選手の子孫:リック・ベンソン氏、マイケル・ベンソン氏
  • モントリオール・ビクトリアズのマイク・グラント選手(主将)のひ孫:アンドリュー・グラント氏、ルーク・グラント氏

 アンドリュー・グラント氏は、感慨深そうに当時の祖父の功績をこう語ってくれました。💬

「本当に光栄ですし、わが家のホッケーの誇り高き歴史を実感しています。曽祖父のマイク・グラントはカナダ陸軍の鍛冶職人でしたが、ビクトリアズの選手としてだけでなく、後年はNHLの審判を務めるなど、まさにホッケーの『伝道師』としてカナダ全土やアメリカ中を飛び回った人物でした」

※ウィニペグ・ビクトリアズとロブ・ベンソン

 ウィニペグ・ビクトリアズ(Winnipeg Victorias)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したカナダのアマチュア・アイスホッケーチームである。NHLが設立される1917年よりも前に、スタンレーカップを3度獲得した名門であり、カナダ西部におけるホッケーの発展を象徴する存在である。

 1893年に創設されたスタンレーカップは、当初、カナダのアマチュア・ホッケー王者を決めるためのトロフィーだった。当時は現在のようなNHLのプレーオフ制度がなく、王者に他のチームが挑戦する方式でタイトルが争われていた。

 1896年2月、ウィニペグ・ビクトリアズは、前年から王者の座にあったモントリオール・ビクトリアズを2対0で破り、スタンレーカップを獲得した。カナダ西部のチームが初めて手にした歴史的な優勝である。地元に戻った選手たちは、メインストリートに集まった数千人の市民に迎えられた。この歓迎行事は、ホッケー史上初のスタンレーカップ優勝パレードとして知られている。

 ただし、両チームの対決はこれで終わらなかった。同年12月30日、モントリオール・ビクトリアズがウィニペグに乗り込み、6対5で勝利。スタンレーカップを奪還した。その後、ウィニペグ・ビクトリアズは1901年にも優勝し、1902年にはタイトルを防衛している。計3度の優勝を果たした同チームは、当時のカナダを代表する強豪の一つだった。

 今回の記念フェイスオフで名前が挙がったロブ・ベンソン(Rob Benson)は、1896年の優勝メンバーである。本名はジョン・ロビンソン・ベンソン(John Robinson Benson)で、1876年5月10日に生まれた。優勝当時は19歳だった。

 ロブは控え選手として登録されていた。当時のホッケーは現在とはルールが異なり、1チーム7人でプレーし、試合中の選手交代も認められていなかった。そのため、控え選手も必要に応じて出場できるよう備えていた。ロブもまた、スタンレーカップを獲得したチームの一員として、その歴史に名を刻んだのである。

 彼の人生はホッケーにとどまらない。ロブは後年、鉄道建設に関わる請負業者として働き、カナダ西部の鉄道網の拡張に携わった。第一次世界大戦ではカナダ海外派遣軍に加わり、陸軍補給部隊で勤務。フランスで任務に就き、1919年には少佐に昇進した。

 一方、戦争による心的外傷や毒ガスへの曝露の影響を受け、帰国後は家族や仕事から離れて暮らすようになった。1952年7月19日、バンクーバーの退役軍人病院で亡くなっている。彼の生涯は、初期のホッケー史だけでなく、戦争が人々に残した影響を知るうえでも興味深い事例である。

 今回のイベントに参加したリック・ベンソン氏とマイケル・ベンソン氏は、ロブの子孫にあたる。リック氏によれば、祖父は銀行の出納係から会計士、支店長へと仕事上のキャリアを重ねながらホッケーを続けていた。当時の選手たちにとって、ホッケーは生活の糧ではなく、仕事と両立させながら情熱を注ぐものだったのである。

 リック氏は記念フェイスオフに際し、祖父が着用していた時代のユニフォームを身にまとった。そこで感じたのは、自分自身への誇りだけではなく、祖父の歴史を受け継ぐことへの感謝だったという。125年以上前にスタンレーカップを争った選手の子孫が、現代のリンクでその歴史を振り返る今回の催しは、世代を超えてホッケーの伝統を伝える機会となった。

 なお、ウィニペグ・ビクトリアズは、現在のウィニペグ・ジェッツとは別のチームである。両者は同じ都市のホッケー史に登場するが、活動した時代も所属制度も異なる。今回の記念フェイスオフは、ジェッツとモントリオール・カナディアンズのOB戦を通じて、現代のファンがホッケーの黎明期に触れる機会となったのである。

参照した主な資料

  • ウィニペグ・ジェッツ公式サイト:2026年10月24日付「Stanley Cup descendants reunite for Jets-Canadiens Alumni Game」。ロブ・ベンソンの子孫であるリック氏とマイケル氏が、モントリオール・ビクトリアズのマイク・グラントの子孫とともに記念フェイスオフに参加した経緯を確認した。(nhl.com)
  • マニトバ・ホッケー殿堂:1896年のウィニペグ・ビクトリアズの優勝記録、チーム構成、ロバート・ベンソンの登録上の位置付けを確認した。(mbhockeyhalloffame.ca)
  • 『ウィニペグ・フリー・プレス』:2026年5月9日付、リック・C・ベンソン氏によるロブ・ベンソンの生涯に関する記事。生年月日、ホッケー選手としての経歴、鉄道建設、第一次世界大戦への従軍、その後の人生を確認した。(winnipegfreepress.com)
  • マニトバ・ホッケー殿堂:2025年11月に設置された、ウィニペグ・ビクトリアズのスタンレーカップ3度の優勝を記念する壁画についての公式資料。(mbhockeyhalloffame.ca)

補足: ロブ・ベンソンの生涯については2026年5月の『ウィニペグ・フリー・プレス』の記事を、チームの優勝記録についてはマニトバ・ホッケー殿堂の資料を参照した。

※モントリオール・ビクトリアズとマイク・グラント

【モントリオール・ビクトリアズ(Montreal Victorias)】 1881年にカナダ・ケベック州モントリオールで創設された、歴史的なアマチュア・アイスホッケーチームである。カナダで最も歴史のあるクラブの一つであり、1890年代の北米ホッケー界において圧倒的な強さを誇った。

 カナダ業余ホッケー協会(AHAC)などに所属し、1895年、1897年、1898年、1899年と数多くのスタンレー・カップ優勝を果たした。特に1890年代後半には、ウィニペグ・ビクトリアズとの間でスタンレー・カップを巡る熾烈な争いを繰り広げ、初期アイスホッケーの発展に大きく貢献した。

【マイク・グラント(Mike Grant / Michael Grant、1873年–1955年)】モントリオール・ビクトリアズの黄金期を主将(キャプテン)として支えた名ディフェンス選手である。1895年に21歳で主将を務めてチームをスタンレー・カップ優勝へと導き、歴史上最も若い主将優勝記録を樹立した。

 当時のディフェンス(カバーポイント)は自陣を守る役割が主流であったが、グラントは抜群のスケーティング技術とスピードを生かし、パックを持って敵陣へ攻め上がる「攻撃型ディフェンス」の先駆者となった。また、アメリカ合衆国でのエキシビションマッチの開催にも尽力し、ホッケーの普及に努めた。これらの功績が評価され、1950年にはホッケーの殿堂(Hockey Hall of Fame)入りを果たしている。


🏆 すべてはここから始まった!スタンレーカップ最初の激闘

 実は、スタンレーカップ創設からの最初の10年間で王者の栄冠を手にしたのは、ウィニペグとモントリオールの2都市だけでした。🔥

※「スタンレーカップ創設からの最初の10年間で王者の栄冠」の歴史

【スタンレーカップ創設と初期の対戦形式(チャレンジ・エラ)】スタンレーカップは、1892年に当時のカナダ総督スタンレー卿によって寄贈され、1893年に初代王者(モントリオール・ホッケー・クラブ)が決まり始まった。当時のホッケー界はプロリーグではなくアマチュアの時代であり、リーグ戦の王者に対して、他地域のチームが挑戦状を出して戦う「チャレンジ・カップ(Challenge Cup)」という形式が採用されていた。

【最初の10年間(1893年〜1902年)を独占した2都市】1893年の大会開始から1902年までの最初の10年間(計10シーズン・全11回のカップ授与/保持)、王者の称号を手にしたのはモントリオールとウィニペグの2都市のチームのみであった。

  • モントリオールのチーム:
    • モントリオール・ホッケー・クラブ(Montreal AAA):1893年、1894年、1902年に優勝。
    • モントリオール・ビクトリアズ(Montreal Victorias):1895年、1896年(12月)、1897年、1898年に優勝。
    • モントリオール・シャムロックス(Montreal Shamrocks):1899年、1900年に優勝。
  • ウィニペグのチーム:
    • ウィニペグ・ビクトリアズ(Winnipeg Victorias):1896年(2月)、1901年、1902年(1月)に優勝。

【歴史的意義と10年間の終焉】当時、ホッケーの強豪や本格的なリンク施設は、東部カナダ(特にケベック州)に集中していた。その中で、西部カナダから名乗りを上げたウィニペグ・ビクトリアズが、1896年にモントリオール・ビクトリアズを破り、ケベック州以外のチームとして初めてカップを持ち帰った出来事は、カナダ全土へのホッケー普及を象徴する偉業となった。

 この「モントリオールとウィニペグによる2都市独占時代」は10年間続いたが、1903年3月にオタワ・シルバー・セブン(オタワ・セナターズの前身)がモントリオールHCを破り、カップを獲得したことで独占時代も終わり、新たな強豪都市の台頭へと歴史が移り変わった。

 歴史的なその歩みは、まさにホッケーの原点です。

  • 1896年2月:ウィニペグ・ビクトリアズがモントリオールを 2-0 で破り、カナダ西部勢初のカップ制覇!メインストリートには何千人もの市民が駆けつけ、ホッケー史上初の「優勝パレード」が行われました🎉
  • 同年12月30日:モントリオール・ビクトリアズがウィニペグへ乗り込み、 6-5 の激闘の末にカップを奪還⚔️

 リック・ベンソン氏は、当時の選手たちの知られざるライフスタイルについてこう振り返ります。💭

「当時は誰もが純粋なアマチュアでした。選手にわずかなお金を渡しただけで監督がリーグを追放されたほど厳格な時代です。私の祖父も銀行の出納係から始めて会計士、そして支店長へとキャリアを重ねながらプレーしていました。彼らにとって仕事は家族を養うための手段であり、ホッケーは純粋な情熱そのものだったのです」

モントリオール・カナディアンズ公式チャンネルによる、ジェッツ対カナディアンズOB戦のフルストリーム映像です。最初の選手紹介のシーン、日本プロ野球OB戦なんかにありがちな緩んだ雰囲気が無くて、OBの顔に現役並みの緊迫感が漂っているのが印象的。


ジェッツ対カナディアンズOB戦のメンバーはこちら→NHL公式サイト「Jets-Habs Alumni Game tickets roster update」

👕 祖父の背中を感じて。受け継がれる誇りと家族の絆

 氷上でしのぎを削ってから1世紀以上。ウィニペグのリンクで再び相まみえた両家は、今日のホッケーの礎となった往年のライバル関係に深い敬意を払いました。✨

 当時のユニフォームに身を包んだリック・ベンソン氏は、胸の高鳴りをこう表現しています。💓

「モントリオールへの遠征時、祖父もまさにこのジャージを着てウォームアップをしていたはずです。リンクを滑り、汗を流しながらパックをさばき、キーパーにシュートを放っていたのでしょう。大平原の田舎町から、カナダ最大級の大都市へと乗り込んできた一人の青年……。

 もちろん、今このジャージを着る私がプレッシャーを感じているわけではありません。ただただ誇らしく、この場にいられることに感謝するばかりです。主役は私ではなく、祖父のロブ・ベンソンなのですから」

 また、アンドリュー・グラント氏も、亡き父への想いと重なる特別な心境を明かしてくれました。🥲

「言葉にできないほどの誇りを感じています。今回は不思議なくらい色々な出来事が重なりました。この土曜日は私の誕生日ですし、去年の今頃は、私をホッケーの世界へ導いてくれた父が亡くなった時期でもあります。父と私は同じ高校のチームでプレーした間柄で、それも一生の誇りです。

 1955年頃の父のプレー写真と、1985年の私の写真が残っています。だからこそ、今夜リンクに立てることは私にとって本当に特別な経験なのです」

讃岐猫
讃岐猫

まとめ

 125年の時を超えて、家族の歴史とホッケーへの愛が、現代のリンクで見事に交差した今回のOB戦。❤️‍🔥

 世代を超えて受け継がれるスポーツの素晴らしさに、胸が熱くなりますね!今後のNHLのイベントやレジェンドたちの動向からも目が離せません!👀✨

讃岐猫
讃岐猫
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