エドモントン・オイラーズ創設秘話とWHAからNHLへの軌跡

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はじめに

 コナー・マクデイビッド率いるエドモントン・オイラーズがスタンレーカップを狙う今、その原点に目を向けると、創設者はなんと元戦闘機パイロットだったという驚きの事実が。

 情熱と型破りな行動でチームを作り上げた男の物語は、まさにNHLを巡る歴史は深いのです。オイラーズのルーツを紐解きます🏒✨

参照記事:NHL公式サイト「Oilers’ pursuit of Stanley Cup product of founder’s ‘immense will’

🏒オイラーズのルーツは戦闘機パイロット!?驚きの始まり

 現在、スタンレーカップ・プレーオフもいよいよ佳境。注目のウェスタン・カンファレンス決勝では、エドモントン・オイラーズとダラス・スターズが激突中🔥

 そんなオイラーズが、実は第二次世界大戦の戦闘機パイロットによって設立されたチーム(当初はジュニアホッケーチーム)だって知ってましたか?

 1990年以来となる6度目のスタンレーカップ優勝を目指して戦うエドモントン・オイラーズを見ていると、コナー・マクデイビッドとレオン・ドライサイトルが率いるこのチームが、かつて第二次世界大戦中にブリテンの戦い1で戦ったカナダ空軍の戦闘機パイロットによって設立されたとは、にわかには信じがたいけど本当の話なんです!

 この物語の主人公は、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーン出身のビル・ハンター。1940年代初頭、彼はヨーロッパの空を飛びながら、スーパーマリン・スピットファイアやホーカー・ハリケーンといった戦闘機を操縦していたんです✈️戦争が終わって帰国した彼は、エドモントンにプロホッケーの種をまき始めました。

🧊情熱の男・“ワイルド・ビル”ハンターの挑戦

 ビル・ハンター2(2002年12月16日、82歳で死去)、通称“ワイルド・ビル”は、ただのホッケー好きじゃありませんでした。彼の情熱はとにかくすごい!「他の誰もが夢見ることすらできなかったことを思い描く想像力を持ち、それを現実にする創意工夫も備えていた」なんて評されるほど✨

 「NHLのオイラーズと、彼らの最初の本拠地であるノースランズ・コロシアム3は、ハンターの強い意志の産物だった」と、エド・ウィルズ4は著書『The Rebel League: The Short and Unruly Life of the World Hockey Association(反逆のリーグ:WHAの短く荒々しい歴史)』で記しています。

 第二次世界大戦後、ハンターがNHLチームを作るというのは、ただの夢にすぎませんでした。彼はその後、西カナダホッケーリーグ(WHL5のこと)の会長となり、同時にエドモントン・オイル・キングス(WHL所属チーム)の運営も手がけることになります。

 1972年に新リーグ「WHA6(ワールドホッケーアソシエーション)」が誕生すると、彼はすぐに動き出し、その西地区6チームの1つ、「アルバータ・オイラーズ」(後のエドモントン・オイラーズ)を設立。そして同時に、リーグの熱狂的な応援団長のような存在にもなりました。そして、いきなり「これは世界史上最高の日だ!」と記者会見で叫んじゃう熱さ😅

 1972年のWHAドラフトの初日にNHL選手会の会長を紹介しながら、一呼吸置いた後、「もし彼がこのリーグを支持しないのなら、霊柩車に乗せて帰してやる!」なんてブラックジョークまで…これはちょっとヒヤヒヤですね💦

 彼が紹介しようとしていたのは、NHL選手会の会長であるアラン・イーグルソン7でした。彼はその発言に対して、かすかに笑っただけだったそうです。そして実際のところ、WHAのどのコーチもハンターの言動を面白いとは思っていませんでした。

讃岐猫
讃岐猫

🥅試合前は応援団長!?まさかの命令

 ハンターの情熱は、普通のオーナーとは桁違い。オイラーズの初シーズン中、なんとゴーリーのケン・ブラウンに「君は今日から応援担当だ!」と珍しい任務を命令😳

 試合前には、「俺たちはオイラーズ、それを誇りに思ってる、さあ手をたたけ!」と全員で叫ばされたとブラウンは振り返っています(笑)。ちょっとしたショーみたいな雰囲気です🎉「ある日なんて、ビルに『ブラウン君、君は今日から熱意担当だ』って言われたんだよ」。

 当時のディフェンスマン、アル・ハミルトンは「毎年、シーズン半ばになるとコーチがクビになる気がした」と苦笑。まるでジェットコースターみたいな運営ぶりだったようですね。

 「ハンターは我々のリーグにおけるP.T.バーナム8(※派手な興行師)のような存在だった」と、WHA最後の会長であるハワード・ボールドウィン9は語ります。「でも時々、やり過ぎることもあったよ」。

📰“記者会見のための記者会見”!?伝説的エピソード続々

 ハンターの個性は、リーグ内外でも強烈でした😆ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー紙10のホッケー記者、ウォルト・マーロウは彼を「記者会見のために記者会見を開く男」と形容。まさにエンタメ精神全開🎤

 「ハンターのスケーターたちは、決して圧倒的ではなかったが、競争力はあった」と、ホッケー殿堂入りディフェンスマン、ケビン・ロウ11は自伝『Champions: The Making of the Edmonton Oilers(チャンピオンズ:エドモントン・オイラーズの軌跡)』の中で記しているくらい、ハンターの手腕は確かでした。

 彼の奇抜さが目立ちすぎるだけで、チーム作りのセンスも本物だったんです✨

🚨NHLへ!オイラーズの新たなスタート

 オイラーズは1979年のNHL拡張ドラフトまで存続し、その年、エドモントン、ウィニペグ・ジェッツ、ケベック・ノルディクス、ハートフォード・ホエーラーズがNHLに加盟しました。

 その時までには、ハンターの奇抜な演出も限界を迎えており、彼はチームの持ち分を売却していましたが、彼の存在は決して忘れられることはありませんでした。エルマー・ファーガソン賞12受賞コラムニストのテリー・ジョーンズは、「今日のオイラーズがあるのは、ビル・ハンターのおかげだ」と断言🧡

🐐グレツキーの登場、そして“史上最高のチーム”へ

 NHL入りとともに、あのウェイン・グレツキーもスムーズに移籍✨彼のキャリアはここから始まり、「NHL史上最高の個人記録」を次々と打ち立てていきます。

 ウィルズは、「ウェインにとって、それはNHL史上最高の個人キャリアの始まりだった、彼は史上最も偉大なチームの一員になった」とも語っており、まさに夢が現実となった瞬間でした。

🏆32年ぶりの栄光へ。現代オイラーズの挑戦

 そして今、コナー・マクデイビッド率いる現代のオイラーズが、1992-93年のモントリオール・カナディアンズ以来となるカナダのスタンレーカップ制覇を狙っています🇨🇦(32年間も!)現代最高の選手と評されるコナー・マクデイビッドを擁している今、その悲願達成の可能性はあります。

 きっと“ワイルド・ビル”は、自らの創造物に父親のような誇りを抱いているでしょう。オイラーズは、ウェスタン・カンファレンス決勝でダラス・スターズに対し2勝1敗とリードしており、第5戦は木曜、アメリカン・エアラインズ・センターで開催されます(東部時間午後8時。日本時間では5月30日・金曜日、午前10時)。

 エドモントンは、初戦を6対3で落とした後、第2戦を3対0で勝利し、第3戦ではマクデイビッドとザック・ハイマンがそれぞれ2得点を挙げ、6対1の圧勝でした。

 「彼が60ゴールを挙げた選手だってことを、みんな忘れてると思う、彼は多分、ゴールスコアラーとして過小評価されがちじゃないかな。パスであれシュートであれ、いつも正しいプレーを選ぶんだ」と第3戦後に語るのはザック・ハイマン。

 マクデイビッドは2022-23シーズンにNHLキャリア最多の64ゴールを記録していて、まさに“得点もできる司令塔”💥「彼がシュートすれば、それが入る確率はとても高い。世界最高の選手だ」とハイマンも絶賛しています🏒✨

🔚終わりに:ビル・ハンターの夢は、今も続いている

 戦闘機パイロットだったビル・ハンターが蒔いた小さな種は、時を超えて今もオイラーズに受け継がれています🌱熱意、情熱、そしてちょっとのおふざけ(笑)。それが、このチームのDNAなんです。

 スタンレーカップを掲げるその日まで、きっと“ワイルド・ビル”も天国から見守ってくれているはずです👀💫

讃岐猫
讃岐猫

【註釈】

  1. 1940年夏から秋にかけてイギリス上空で繰り広げられた、イギリス空軍(RAF)とドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)による大規模な航空戦。その際、イギリスは最新のレーダー網と地上管制システムを駆使し、効率的な迎撃体制を構築していた。

     また、高性能なスピットファイアやハリケーンといった戦闘機、そして勇敢なパイロットたちの活躍が、ドイツの猛攻を食い止める大きな要因となったとされている。
    ↩︎
  2. 本名William “Bill” Dickenson Hunter。「ワイルド・ビル」と呼ばれ、WHL の創設者の一人であり、現在もWHLでは彼にちなんだ賞がある。また、NHLのライバルリーグだったワールド・ホッケー・アソシエーション (WHA) の設立にも尽力し、NHLの選手契約に大きな影響を与えた。

     ハンターは2001年にカナダのスポーツ殿堂入りを果たし、その情熱と型破りな行動で、北米のホッケー界に計り知れない足跡を残した。
    ↩︎
  3. カナダのエドモントンにかつて存在した多目的アリーナ。1974年に開場し、NHLのエドモントン・オイラーズのホームアリーナとして長年使われた。

     特に、ウェイン・グレツキーを中心としたオイラーズが5度のスタンレーカップを勝ち取った「黄金時代」の舞台となったことで有名で、「ザ・ハウス・ザット・グレツキー・ビルト(グレツキーが建てた家)」という愛称でも親しまれた。

     しかし、オイラーズが新しいロジャーズ・プレイスに移転したため、2016年にNHLアリーナとしての役割を終え、2018年に閉鎖。現在、建物は解体され、跡地は再開発が進められている。
    ↩︎
  4. 約40年のキャリアを持つカナダのベテラン・スポーツ・ライター。特にホッケーに造詣が深く、彼の代表作にはWHAの歴史を扱った『The Rebel League』や、ウェイン・グレツキーとマリオ・ルミューが登場する1987年のカナダカップに関する書籍などがある。

     長年、バンクーバーのThe Province紙でコラムニストを務め、その深い知識とユーモア、そして正直な姿勢で知られている。2020年に引退したものの、2024年にはバンクーバー・カナックスの歴史に関する新刊を出版するなど、現在も精力的に活動中。
    ↩︎
  5. カナダの主要なジュニアホッケーリーグの一つ。WHLは、カナダの西部4州(アルバータ、ブリティッシュコロンビア、マニトバ、サスカチュワン)とアメリカの太平洋岸北西部(ワシントン、オレゴン)に本拠地を置くチームで構成されている。

     1966年に設立され、何度かの名称変更を経て1978年に現在のWHLとなったが、設立当初は「Western Canada Hockey League (WCHL)」という名称だった。

     毎年、数多くのNHL選手を輩出する「登竜門」として知られ、若手スター選手が育つ重要な舞台となっている。リーグのチャンピオンは、カナダジュニアホッケーの最高栄誉であるメモリアルカップを争う。
    ↩︎
  6. 世界ホッケー協会は、1972年から1979年まで北米に存在したプロアイスホッケーリーグ。当時の主要リーグであるNHLのライバルとして登場し、特に以下の点で大きな影響を与えた。

    選手待遇の改善:NHLの「リザーブ条項」を打破し、選手に高額なサラリーと移籍の自由をもたらした。ボビー・ハルやゴーディ・ハウといったNHLのスター選手がWHAに移籍し、大きな話題を呼んだ。

    NHLへの合併:1979年に財政難からNHLに吸収される形で消滅したが、この合併によりエドモントン・オイラーズを含む4チームがNHLに新規加入。オイラーズは後にウェイン・グレツキーを中心とした黄金時代を築き、WHAの遺産をNHLに引き継いだ。

     WHAは短命だったが、プロホッケー界における選手の権利向上とNHLの拡大に大きく貢献した、非常に重要なリーグ。
    ↩︎
  7. カナダの元弁護士であり、NHL初の選手代理人としてボビー・オアの契約を交渉した。1967年にはNHL選手協会(NHLPA)の初代事務局長に就任し、25年間にわたり選手の権利向上に尽力。

     また、1972年のサミットシリーズやカナダカップといった国際大会の設立にも重要な役割を果たし、「アンクル・アル」の愛称で親しまれ、1989年にはホッケーの殿堂入り。しかし、後に詐欺や横領といった不正行為が発覚し、有罪判決を受けて収監された。

     これにより、殿堂入りを辞退し、カナダ勲章も剥奪されるなど、そのキャリアは不名誉な形で終わりを告げた。
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  8. Phineas Taylor Barnum(1810-1891)は、19世紀アメリカを代表する興行師であり、現代のショービジネスとマーケティングの原型を築いた人物。彼は、「バーナムのアメリカン・ミュージアム」や、後に「地上最大のショー」として知られるサーカス「リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」を成功させた。

     スウェーデンの歌手ジェニー・リンドの米国ツアーをプロデュースするなど、型破りなプロモーションと大胆な宣伝戦略で知られ、「広告界のシェイクスピア」とも。一方で、彼の興行は時に倫理的な問題を伴い、物議を醸すこともあった。市長を務めるなど政治家としての側面も持ち合わせ、その人生は功績と論争の両面から語り継がれている。
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  9. アメリカの起業家で、特にWHA(世界ホッケー協会)において重要な役割を果たした人物。彼は28歳という若さで、WHAチームのニューイングランド・ホエーラーズの共同創設者となり、リーグの会長も務めた。

     1979年には、WHAとNHLの歴史的な合併を主導し、ホエーラーズをハートフォード・ホエーラーズとしてNHLに加盟させた。その後もNHLの複数のチーム経営に携わり、ピッツバーグ・ペンギンズのオーナー時代には2度のスタンレーカップ優勝を経験。

     ホッケー界での功績が認められ、2010年にはWHAの殿堂入り。スポーツ界だけでなく、映画プロデューサーとしても活躍している。
    ↩︎
  10. 1962年から1989年までロサンゼルスで発行されていた主要な日刊新聞。ウィリアム・ランドルフ・ハーストが所有し、最盛期にはロサンゼルス・タイムズと並ぶロサンゼルスの2大新聞の一つとして、1日73万部もの発行部数を誇った。特に犯罪報道やハリウッドのゴシップに強みを持っていた。

     しかし、1967年からの長期ストライキや、テレビニュースの台頭、ロサンゼルス・タイムズとの激しい競争により衰退。最終的に経営不振のため、1989年に閉鎖されました。その歴史的な建物は現在も残され、再活用されている。
    ↩︎
  11. カナダの元プロアイスホッケー選手で、特にエドモントン・オイラーズの黄金時代を支えたディフェンスマンとして知られる。1979年からオイラーズで活躍し、ウェイン・グレツキーらと共に5度のスタンレーカップ優勝(1984, 1985, 1987, 1988, 1990年)に貢献。

     その後、ニューヨーク・レンジャーズでも1994年にスタンレーカップを獲得し、選手として合計6度の優勝を経験している。2020年にはホッケーの殿堂入り。引退後も、オイラーズのアシスタントコーチ、ヘッドコーチ、そしてゼネラルマネージャー(GM)を務めるなど、長年にわたりチームの要職を歴任し、その成功に貢献し続けている。
    ↩︎
  12. 1984年創設のElmer Ferguson Memorial Awardは、ホッケーに関する優れたジャーナリズム活動を称える賞。ホッケーに関するジャーナリズム(主に新聞)において、著しい功績を上げたライターやコラムニストに贈られる。

     ホッケーの殿堂(Hockey Hall of Fame)が主催し、「ジャーナリズムとホッケーの両方に名誉をもたらした、新聞業界の著名なメンバーを称える」ことを目的とする。毎年、プロフェッショナル・ホッケー・ライターズ・アソシエーション(Professional Hockey Writers Association: PHWA)によって候補者が推薦され、ホッケーの殿堂の選考委員会によって選出。

     なお、賞の名称の由来となったエルマー・ファーガソンは、モントリオール・ヘラルドやモントリオール・スター紙で活躍した著名なスポーツライター。彼は長年にわたりホッケーを取材し、その卓越した文章で多くの読者を魅了した。彼自身も1984年にこの賞を授与されている。 ↩︎
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