はじめに
2010年、シカゴ・ブラックホークスが49年ぶりのスタンレー・カップ制覇を達成。その栄光の裏には、意外な誕生秘話がありました。
この記事では、チーム創設のきっかけとなった1926年当時のエピソードをもとに、NHLオリジナル・シックスの歴史を探ります!ホッケー初心者にもわかりやすくご紹介します🏒✨
参照記事:On Tap Sports Net1「How a WWI Division, a Sauk Leader, and a Folded League Built the Chicago Blackhawks」
🏆2010年6月9日、運命の瞬間
2010年6月9日――シカゴ・ブラックホークスのパトリック・ケインがフィラデルフィア・フライヤーズのゴールテンダー、マイケル・レイトンを抜き去り、高く両手を挙げて喜びを爆発させる🏒。その場で歓喜しているのは、ケインただひとり。レイトンはただ呆然と立ち尽くす。
パックがゴールに入ったのかどうか、誰も確信が持てない中、彼はベンチへ向かって滑り、チームメイトたちを祝福の輪へと呼び込んでいた。
「パックはどこだ?ケイナーは今、本当にゴールを決めたのか?今、スタンレー・カップを決めたのか?」
この瞬間、シカゴはフライヤーズを延長戦の末、4対3で下し、スタンレー・カップ・ファイナル第6戦を制覇。NHLの中でも最も歴史あるフランチャイズのひとつが、ついに、1961年以来の長きにわたる優勝からの空白に終止符を打ったのです。
2010年のスタンレーカップ・ファイナル、優勝決定シーン。一応、ゴールかどうか、審判はチェックかけているんですね。
この2010年のスタンレーカップ・ファイナル2は、まるで詩のような展開でした。サラリーキャップ制導入以降のNHLで、ブラックホークスは最もリーグを支配するチームのひとつとなり、長らく停滞していたフランチャイズを再生させ、シカゴという街にホッケーの情熱を再び呼び起こしました。
2010年代のブラックホークスは、NHL創成期の歴史を背負いながら、1926年に始まった壮大な物語の中で黄金期を迎えたのです。この年代のブラックホークスは、NHLの歴史に刻まれる輝かしい1章と言うべきでしょう✨
🏙NHLの拡張とシカゴの台頭
1926年、NHLにはまだわずか7チームしか存在していませんでした。スタンレーカップは、モントリオール・マルーンズ3がウエスタン・ホッケー・リーグ4(WHL)のビクトリア・クーガーズ5を破って手にしています。
そして、NHLは第10シーズンに突入し、ボストン・ブルーインズ(1924年)やピッツバーグ・パイレーツ(1925年)の成功を受けて、新たな拡張先となる都市を模索していたのです。――。
当時、カナダには4チーム(トロント・セントパトリックス、マルーンズ、モントリオール・カナディアンズ、オタワ・セネターズ)があり、アメリカにはニューヨーク・アメリカンズなど3チームしかなかったのです。
この年、NHLにとって大きな転機が訪れます🏒。1921年からNHL最大のライバルであったWHLが、1926年に解散してしまったのです。スタンレー・カップをかけて争っていたライバルが姿を消したことで、NHLは世界最高峰の選手たちを手に入れ、同時にカップの支配権も握ることになりました。
その結果、才能あふれる選手たちが大量に流入し、NHLは複数都市への拡張計画が現実的になっていきます。しかし、どこに進出するかは簡単な決断ではありませんでした。
🧭注目の4都市とシカゴの苦戦
NHLの理事会は1926年に2度会合を開き、次のフランチャイズ設立地(チームを設置する都市)🏙を検討しました。候補に挙がったのは、ニューヨーク、デトロイト、フィラデルフィア、そしてシカゴ。チーム設立には全会一致の賛成が必要です。
4月の会合では、ニューヨークとデトロイトが無事に承認され、シカゴとフィラデルフィアは否決されてしまいます。ニューヨークは順当でした。レンジャーズのオーナー、テックス・リカード6がマディソン・スクエア・ガーデンの新アリーナを建設中。デトロイトも大型アリーナの建設を予定しており、有望な都市として順調でした。
一方、シカゴにはまだアリーナがなく、票は集まりません。しかし、テックスはマディソン・スクエア・ガーデンより大きなアリーナをシカゴに建てる案を提案。さらに別の地元グループもプロホッケーチーム用のアリーナ建設を計画していました。
この頃、シカゴは急成長を遂げていた都市であり、ホッケーの新天地として理想的だと見なされていたのです。当時、ホッケーは投資家たちにとって収益性の高いスポーツと考えられていたからです。
🤝オーナー争いとNHL憲章の変更
シカゴをめぐるフランチャイズ権には、2つのグループが名乗りを上げていました。ひとつは、元フットボールスターのハンティントン・ハードウィック7が率いる投資家グループ。もうひとつは、地元の実業家パディ・ハーモン8を中心とし、ニューヨーク・アメリカンズ9のオーナーであるトーマス・ダガン10と提携したグループです。
しかし、問題が起こります。ダガンは「ハードウィックは実はテックス・リカードの代理で、リカードが2チーム目のオーナーになろうとしているための隠れ蓑に過ぎない」と疑い、反対票を投じたのです。全会一致が必要な状況で、シカゴ案は再び否決されました。
とはいえ、NHLにとってもシカゴという都市は必要不可欠な存在。ハーモンはすでにアリーナ建設の準備は進めており、新しいホッケーチームも設立予定でした。それがNHLに所属するか、別のプロリーグになるかは状況次第だったのです。
この対立は深刻化し、一時、他チームのオーナーたちは「新リーグを作ってNHLを離脱する」という案まで出たほどでした。これを受け、NHLはついに重大な決断を下します。
📜NHL憲章の修正とシカゴ承認
リーグの安定を守るため、NHLは憲章を改正。全会一致ではなく、過半数の賛成で新チームの設立を認めることに条件を緩和しました。
そして1926年5月1日、改めて開かれた会合で、シカゴの新チーム設立がついに承認されたのです(ニューヨーク、デトロイトへの拡張も)。こうしてハードウィックは新たなシカゴ・フランチャイズのオーナーとなり、ホッケーの新しい歴史が動き始めます。
🌹ポートランド・ローズバッズからのスタート
シカゴのチーム設立が承認されたことで、次に必要なのは選手たち――。その答えは、遠く西海岸のオレゴン州ポートランド🌹にありました。
NHLは新たに誕生したシカゴとデトロイトの2チームに対し、それぞれWHL(解散したウエスタン・ホッケー・リーグ)のチームを10万ドルで買収して、ロースターを編成することを認めました。残りのWHL選手たちは、戦力が弱い既存のNHLチームに割り振られました。
デトロイトは、1926年のスタンレー・カップ・ファイナルで敗れたビクトリア・クーガーズのチームを買収し、「デトロイト・クーガーズ」としてスタート。一方、ハードウィックはポートランド・ローズバッズ11を買収、自らのシカゴチームの母体とし「シカゴ・ナショナル・ホッケーチーム株式会社」としてチームを設立しました。
🧊ローズバッズの遺産
ポートランド・ローズバッズは比較的成功したチームで、決して無名のチームではありませんでした。初代チームは1914年から1918年にかけて活動し、1916年にはスタンレー・カップも獲得しています。WHL時代のチームはわずか1年、1925–26シーズンしか存在せず、解散。そのメンバーたちはシカゴのチームにとって貴重な戦力となりました。
ヘッドコーチのピート・マルドゥーン12はシカゴに残り、選手たちの中には後にチームのスターとなるディック・アーヴィン13の姿もありました。
🪑そして、オーナー交代へ
しかし、オーナーのハードウィックがチームを率いたのは、わずか数週間のことでした🏒。彼がテックスのライバルたちから圧力を受けたのかは定かではありませんが、6月1日、彼はNHLに対し、「シカゴ出身の人物が新たな会長となり、取締役もシカゴの人々で構成される」と通知。
その新オーナーこそ、シカゴで「マクラフリンズ・マナーハウス・コーヒー14」を経営していた実業家、フレデリック・マクラフリン15だったのです。
🦅ブラックホークス誕生とその名の由来
新オーナーとなったフレデリック・マクラフリンは、第一次世界大戦中にアメリカ陸軍の将校として従軍していました。彼が所属していたのは第86歩兵師団。この部隊は「ブラックホークス(Blackhawks)」というニックネームで知られ🦅、1917年の創設当初からイリノイ州とウィスコンシン州出身の兵士たちで多数構成されていました。
この師団はシカゴ近郊のフォート・シェリダンで士官訓練を受けており、その名前はソーク族16のリーダー、マカテウェ・メシ・ケーケークワ(英名:ブラック・ホーク)に由来しています。
🪶名称とロゴに込められた思い
マクラフリンは、自身がかつて所属していたこの部隊に敬意を表して、シカゴのホッケーチームを「ブラックホークス」と名付けました🪶。実際に、シカゴフランチャイズを登録した当初の公式文書には、チーム名が「Blackhawks」と1語で記載されており、これは第86師団の通称と同じ表記でした。
そして、チーム初代のロゴをデザインしたのは、なんとマクラフリンの妻でした。このロゴには、ソーク族のリーダーであるブラック・ホークの顔が描かれており、単なる軍の象徴だけでなく、アメリカの先住民族の歴史的リーダーとしての側面も色濃く反映されていたのです。
🪓ブラック・ホークという人物とロゴの意味
ブラック・ホークは、ソーク族の歴史において極めて重要なリーダーでした🪓。彼は公式な「War Chief」ではありませんでしたが、必要とあらば人々を導き、戦場でもそのリーダーシップを発揮しました。
中でも有名なのがブラック・ホーク戦争17(Black Hawk War)。この戦いの後、彼はアメリカ軍に捕らえられ、アメリカ各地を連れ回されることになります。まるで見世物のように扱われながらも、彼は一貫して平和と共存の大切さを語り続けました。
🕊️「土地を奪った人々とも、友人になりたい」
ブラック・ホークは、「自分たちの土地を奪った人々とも、友として協力していけたら」という言葉を残したとされています。戦士でありながら、最終的には人と人とのつながりを望んだ彼の思いは、ロゴにも強く宿っています。
このロゴ🖤は単なるチームのマークではありません。ブラック・ホークという人物の記憶、そして彼が信じた価値観を現代に伝える“しるし”なのです。
だからこそ、このロゴはスポーツ界でも特別な意味を持ちます。それは、単なる「シンボル」ではなく、「物語」そのもの。戦いの中でも平和を願ったひとりの人物の、深く強い精神が、今もリンクの上で息づいているのです✨

参照した記事を読んでいて、深く考えさせられました。長年培われてきた歴史・伝統への敬意、人と人が傷つけ合い争うことの無意味さ、人が信じ合えることによってもたらされる希望、今の自分があることへの感謝、それらの思いが刻み込まれた、素晴らしい記事だと思います。NHL各チームにある歴史、これらをさらに追いかけたくなりました。
2023年の試合開始前セレモニー。ブラックホークスのルーツへの敬意に溢れています。
⏭️次回予告:1926年、ブラックホークスの船出
こうして誕生したシカゴ・ブラックホークス。軍の伝統と先住民族の物語を背負いながら、彼らはNHLの新たなステージへと踏み出していきます。
次回のブログでは🔜、いよいよ彼らの初年度となる1926年のシーズンにスポットを当てていきます。チームがどのように戦い、どんな選手たちが氷上を駆け抜けたのか――。そして、ホッケーの街としてのシカゴが、どのように育っていったのかを一緒にたどっていきましょう!
お楽しみに!🏒✨
まとめ
シカゴ・ブラックホークスの誕生には、NHLの拡張と政治的な駆け引き、そして一人の先住民族のリーダーの精神が深く関わっていました。チーム名やロゴに込められた想いを知ることで、ホッケーの歴史がより身近に感じられるはずです✨

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!
【註釈】
- シカゴを拠点とするスポーツメディアで、ベアーズ、ホワイトソックス、ブルズなど地元チームのニュースや分析、ポッドキャスト、動画を配信している。YouTubeやSNSでも積極的に発信しており、ファン参加型のコミュニティづくりも特徴。
↩︎ - ウェスタンカンファレンスのシカゴ・ブラックホークスと、イースタンカンファレンスのフィラデルフィア・フライヤーズの間で争われた。
決勝までの道のり
シカゴ・ブラックホークス: 2009-10シーズンのレギュラーシーズンをセントラルディビジョン王者として終え、ウェスタンカンファレンス第2シードを獲得。プレーオフでは、ナッシュビル・プレデターズとバンクーバー・カナックスをそれぞれ6試合で破り、サンノゼ・シャークスをスイープ(4連勝)して決勝に進出。
若きスター選手であるジョナサン・テーブスやパトリック・ケインを中心に、強力な攻撃力と守備力を兼ね備えていた。
フィラデルフィア・フライヤーズ: イースタンカンファレンス第7シードとして、レギュラーシーズン最終日にかろうじてプレーオフ進出を決めるという劇的なシーズンを送った。
プレーオフでは、ニュージャージー・デビルズを5試合で破った後、ボストン・ブルーインズに対しては0勝3敗の絶望的な状況からNHL史上3度目となる逆転勝利を収め、その勢いのままモントリオール・カナディアンズを5試合で破って決勝に進出した。粘り強いプレーと、特にゴールテンダーのマイケル・レイトンによる活躍が光った。
決勝シリーズの展開
シリーズは全体的に接戦であった。
第1試合: ブラックホークスが6-5という高得点ゲームを制し、勢いをつけた。
第2試合: ブラックホークスが2-1で勝利し、シリーズを2勝0敗とリードした。
第3試合: フライヤーズがホームに戻り、接戦を制してシリーズ初勝利を挙げた。
第4試合: フライヤーズが再び勝利し、シリーズを2勝2敗のタイに戻し、激しい攻防が続いた。
第5試合: ブラックホークスがホームで勝利し、スタンレーカップ獲得に王手をかけた。
第6試合: フィラデルフィアで行われたこの試合はオーバータイムまでもつれ込み、ブラックホークスが勝利し、シリーズを4勝2敗で制覇した。これにより、ブラックホークスは1961年以来となる4度目のスタンレーカップを獲得し、50年近く続いた長いカップ獲得空白期間に終止符を打った。
ブラックホークスのキャプテンであるジョナサン・テーブスは、プレーオフを通じて卓越したリーダーシップとプレーを見せ、最優秀選手に贈られるコーン・スマイス賞を受賞。
このブラックホークスの優勝は、シカゴの主要4プロスポーツチーム(カブス、ベアーズ、ブルズ、ブラックホークス)が1985年以降、それぞれ少なくとも1つのチャンピオンシップを獲得したことを意味するものであり、街にとっても歴史的な瞬間となった。
↩︎ - 1924〜1938年までNHLに存在したプロアイスホッケーチーム。モントリオールの英語圏コミュニティのために設立され、同じくモントリオールを本拠地とするカナディアンズとアリーナを共有。マルーンズは1926年と1935年にスタンレーカップを2度獲得するなど、非常に競争力のあるチームであった。
しかし、世界恐慌による財政難が原因で1938年以降活動を停止し、1947年にフランチャイズは正式にキャンセル。マルーンズの消滅以来、スタンレーカップを獲得したNHLチームがその後解散または移転した例はない。
↩︎ - 1921〜1926年まで存在した、カナダのプレーリー地域を拠点とする主要なプロアイスホッケーリーグ。ビクトリア・クーガーズは、1925年のスタンレーカップ決勝でNHLのモントリオール・カナディアンズを破り、NHL以外のチームとして最後にスタンレーカップを獲得したチームとなった。
しかし、NHLの急速な拡大と選手の高騰するサラリーにより財政難に陥り、1926年にNHLに選手の契約を買い取られ解散した。これにより、NHLは北米で唯一のトップレベルのプロリーグとなったのである。
↩︎ - 1911〜1926年まで存在したプロアイスホッケーチーム。当初はパシフィック・コースト・ホッケー・アソシエーション(PCHA)、その後WHLに所属した。ブリティッシュコロンビア州ビクトリアを拠点とし、1925年にはNHLのモントリオール・カナディアンズを破りスタンレーカップを獲得。
これはNHL以外のチームとして最後にスタンレーカップを掲げた事例であり、西海岸のチームとしては2007年のアナハイム・ダックスまで優勝はなかった。WHL解散後、多くの選手がデトロイトの実業家グループに権利を買い取られ、そのフランチャイズは後にデトロイト・レッドウィングスとなる。
↩︎ - アメリカの著名なボクシングプロモーター。1870年生まれ。アラスカのクロンダイク・ゴールドラッシュで財を築いた後、ボクシング界に進出し、ジャック・デンプシー対ジョルジュ・カルパンティエ戦など歴史的な試合をプロモートし、初のミリオンダラーゲートを達成した。
また、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを建設し、NHLチームのニューヨーク・レンジャーズを創設した人物としても知られる。1929年に59歳で死去した。
↩︎ - アメリカのフットボール選手であり、実業家。ハーバード大学でハーフバックとエンドとしてプレーし、3年間無敗を記録、1914年には満場一致でオールアメリカンに選出された。1954年にはカレッジフットボール殿堂入りを果たしている。
第一次世界大戦に従軍後、ボストン・ガーデンを共同設立するなど実業家としても成功を収めた。1949年に死去。
↩︎ - アイルランド系アメリカ人のビジネスマン、スポーツプロモーター。1876年シカゴ生まれ。ダンスホール経営やスポーツイベントのプロモーションでキャリアを築いた。彼の最大の功績は、1929年に当時世界最大の屋内アリーナであったシカゴ・スタジアムを建設したことである。
建設には多くの困難が伴ったが、彼はそれを乗り越えた。スタジアムに全財産を注ぎ込んだが、世界恐慌で破産し、1930年に54歳で死去した。
↩︎ - 1925〜1942年までニューヨーク市を拠点としたプロアイスホッケーチーム。NHL史上3番目の拡張チームであり、米国で2番目にNHLに加わったチーム。カナダのプロモーターと密造業者によって設立され、マディソン・スクエア・ガーデンを本拠地とした。
スタンレーカップを獲得することはなかったが、準決勝には2度進出。第二次世界大戦と長年の財政難により、1942年に活動を停止し、その消滅は1942年から1967年までのNHLのオリジナル・シックス時代の始まりを告げるものとなる。
↩︎ - カナダのスポーツプロモーター。1882年生まれ、1930年死去。競馬、アイスホッケー、ドッグレース、アリーナ経営に携わった。モントリオール・ロイヤル・アリーナの共同所有者であり、NHLのニューヨーク・アメリカンズとボストン・ブルーインズの創設者として知られる。プロホッケーのアメリカへの拡大における重要な先駆者。
↩︎ - アメリカ合衆国オレゴン州ポートランドを拠点としたプロアイスホッケーチームで、2つの異なる時期に存在した。
初代(1914~1918):パシフィック・コースト・ホッケー・アソシエーション(PCHA)に所属。1916年にはスタンレーカップ決勝に出場した最初のアメリカを拠点とするチームとなり、モントリオール・カナディアンズに敗れたものの、一時的にスタンレーカップを保持した。
2代目(1925~1926):レジーナ・キャピタルズがポートランドに移転して誕生。このチームのロースターは、後にNHLの拡張チームであるシカゴ・ブラックホークスの構築に繋がったことで知られる。WHL解散時に選手はシカゴに売却され、ブラックホークスの基盤となる。
シカゴとデトロイトの新フランチャイズは、5月15日に正式にNHLから承認され、9月1日までにロースターを編成し、11月10日までにアリーナを完成させるという条件が課されています。
↩︎ - カナダの著名なアイスホッケーコーチ。1915〜1924年までシアトル・メトロポリタンズのコーチを務め、1917年にはスタンレーカップ優勝に導いた。その後、シカゴ・ブラックホークスの初代コーチに就任したが、1926-27シーズン終了後に解雇された際にチームに呪いをかけたという「マルドゥーンの呪い」で知られる。
この呪いは後にジャーナリストの創作とされたものの、ブラックホークスは41年間地区優勝を逃した。1929年に41歳で死去。シアトル・クラーケンは年間最優秀選手賞を「ピート・マルドゥーン賞」と名付けている。
↩︎ - カナダ出身のプロアイスホッケー選手であり、伝説的なコーチ。選手としては1916〜1928年までPCHA、WCHL、NHLでプレーし、1958年にホッケーの殿堂入りを果たした。引退後はNHLのコーチとして大成功を収め、シカゴ・ブラックホークス、トロント・メープルリーフス、モントリオール・カナディアンズを指揮している。
トロントで1回、モントリオールで3回、合計4回のスタンレーカップ優勝を達成し、コーチとして通算600勝以上を挙げた。1957年に64歳で死去。
↩︎ - 1852年にシカゴで創業された、かつてアメリカで大きな影響力を持ったコーヒーブランド。焙煎・包装済みコーヒーの販売で成功し、19世紀後半には米国で2番目に大きなコーヒー会社に成長した。
このコーヒー事業は、後にNHLチームのシカゴ・ブラックホークスの初代オーナーとなるフレデリック・マクラフリンに引き継がれたことでも知られる。巨大企業の台頭により1967年にブランドは消滅。
↩︎ - アメリカのビジネスマンであり、第一次世界大戦で少佐の階級に達した軍人。NHLのシカゴ・ブラックホークスの初代オーナー。1926年にチームを購入し、自身の陸軍部隊の愛称にちなんでブラックホークスと名付けた。彼の18年間のオーナーシップの下、ブラックホークスは1934年と1938年に2度のスタンレーカップ優勝を果たした。
非常に「ハンズオン」なオーナーであり、多くのアメリカ人選手をロスターに加えることを試みた。1944年に死去し、1963年にはビルダーとしてホッケーの殿堂入りを果たす。
↩︎ - アメリカ先住民の部族の一つ。かつてはウィスコンシン州グリーンベイ近郊に歴史的な領土を持っていたが、現在はアイオワ州、カンザス州、ネブラスカ州、オクラホマ州に拠点を置く3つの連邦政府公認部族が存在する。
メスクワキ族と密接な同盟関係にあり、19世紀にはブラック・ホークに率いられ、土地の喪失に抵抗するブラック・ホーク戦争でアメリカ軍に敗北した。この敗戦後、複数回移住を余儀なくされ、人口も半減した。
↩︎ - 1832年4月〜8月にかけて、アメリカ合衆国と、ソーク族およびフォックス族を中心とするアメリカ先住民の部族との間で戦われた紛争。ソーク族の指導者ブラック・ホークが、失われた伝統的な土地を取り戻そうとしたことから始まった。
最終的にブラック・ホークの部隊は壊滅的な敗北を喫し、アメリカ先住民はさらなる土地の割譲と強制移住を余儀なくされた。この戦争は、エイブラハム・リンカーンやジェファーソン・デイヴィスといった後の著名なアメリカの指導者たちが参加していたことでも知られる。 ↩︎