NHLドラフト外からスターに!名選手12人の実績と成功ストーリーまとめ

アイスホッケー名選手

はじめに

 NHLのスター選手といえば、ドラフトで注目を浴びた選手を思い浮かべがち。でも実は、ドラフトで指名されなかった「ドラフト外」の選手たちの中にも、歴史に名を刻む名プレーヤーが数多く存在します。

 スタンレーカップ優勝、殿堂入り、個人賞の数々──ドラフト外でも、これだけNHLに名選手が多いのです!本記事では、そんな知られざるレジェンドたちをご紹介します✨

参照記事:The Hockey Writers.com「Best Undrafted Players in NHL History

🌟NHL伝説の選手たちの魅力に迫る!

 アイスホッケーの最高峰、NHLには数々の名選手たちがいます。今回は、そんな中から実力と実績を兼ね備えたスター選手たちをご紹介します。彼らのプレースタイルや功績を知ることで、NHLの奥深さと面白さがもっと伝わるはずです!

🛡️スティーブ・デュシェーン:得点力も抜群の守備の名手

 スキルに優れたスティーブ・デュシェーンは、6つのチーム(ロサンゼルス・キングス、セントルイス・ブルース、デトロイト・レッドウィングス、フィラデルフィア・フライヤーズ、そしてオタワ・セネターズ)で16シーズンにわたって活躍した名ディフェンスマン🏒。

 彼は守備だけでなく、攻撃力も非常に高く、出場試合数は1,113試合、通算227ゴール、752ポイントを記録しました。7回のオールスター選出や、ノリス・トロフィー1(最優秀ディフェンスマン賞)で3度トップ10入り、うち2度は5位にランクインしています。

 スタンレーカップ・プレーオフには14回出場し、121試合で77ポイントを獲得。最後のシーズンにはレッドウィングスとともにスタンレーカップを獲得し、有終の美を飾りました🏆。

🏒マーク・ジョルダーノ:ドラフト外からの大躍進

 ジョルダーノはOHL(オンタリオ・ホッケーリーグ)で活躍し、オーウェン・サウンド・アタック2ではディフェンスマンとして最多得点を記録しました。しかし意外にもドラフトでは指名されず、当時のフェニックス・コヨーテズのトレーニングキャンプに招待されます。チームを感心させたものの、最終的にはOHLに戻されました。

 その後、ホッケーから離れてビジネスを学ぶためにヨーク大学に入学しましたが、カルガリー・フレームスからサマーキャンプに招待され、再び印象を残して契約を勝ち取りました🏒。

 最近までトロント・メープルリーフスでプレーし、リーグでも最も安定したディフェンスマンの一人として評価されています。オールスターには2度選出され、2018-19シーズンには35歳で17ゴール、57アシスト、74ポイントを記録し、ノリス・トロフィーを受賞しました。

👑ウェイン・グレツキー:史上最高のスコアラー

 やや特殊な状況ではありましたが、ウェイン・グレツキーは実はNHLドラフトで指名されたことがなく、エドモントン・オイラーズがNHLに加入する際、「パーソナルサービス契約」によってグレツキーと契約🏒。この契約のおかげで、彼はNHLエントリードラフトを経ることなくオイラーズとプレーすることが可能になりました。

【追記】パーソナルサービス契約

 当時のホッケー界の複雑な状況と、彼の並外れた才能がもたらした異例の事態を象徴するものであった。

背景:WHAとNHLの合併

 グレツキーがプロキャリアをスタートさせた1978年当時、北米にはNHLと、それに対抗するWHA(ワールドホッケーアソシエーション)という2つの主要なプロアイスホッケーリーグが存在していた。

 WHAはNHLよりも若い選手と契約することを許可しており、当時17歳だったグレツキーは、まずWHAのインディアナポリス・レーサーズと7年間のパーソナルサービス契約を結んだ。

 しかし、レーサーズは財政難に陥り、グレツキーはわずか8試合でWHAのエドモントン・オイラーズに売却された。その後、1979年にWHAとNHLの合併が決まり、オイラーズを含む4つのWHAチームがNHLに加わることになった。

「パーソナルサービス契約」の性質と意義

 通常、NHLの規定では、若い選手はドラフトを経てチームに加入することになっていた。しかし、オイラーズのオーナーであるピーター・ポックリントンは、グレツキーをドラフトにかけられることを避けるため、彼と21年という異例の長期にわたる「パーソナルサービス契約」を交わした。

 この契約は、通常の選手契約とは異なり、選手個人とオーナー(またはその関連会社)との間で結ばれるもので、選手が特定のチームのためにプレーする権利を保証するものであった。ポックリントンは、この契約を盾にNHLに対し、グレツキーをドラフトに出さずにオイラーズの保護選手としてNHLに加入させることを要求した。

 NHLは訴訟を避けるため、この異例の要求を受け入れ、グレツキーはドラフトを経ずにオイラーズの一員としてNHL入りすることになった。

 この契約は、当時のプロスポーツ界において前例のない長期契約であり、グレツキーの卓越した才能がいかに高く評価され、彼を確保するために異例の手段が講じられたかを示している。この契約は、後にグレツキーがロサンゼルス・キングスにトレードされる際にも、その契約の担保としての役割を果たしたとされる。

 NHLでの20年間のキャリアで、グレツキーは史上最高のプレーヤーと称され、オイラーズ、キングス、ブルース、レンジャーズでプレーしました。通算1,487試合に出場し、894ゴール、1,963アシスト、合計2,857ポイントを記録。アシスト数とポイント数はいずれもNHL記録であり、今後も破られる可能性は極めて低いと考えられています。

 18回のオールスター選出を誇るグレツキーは、ハート・トロフィー(MVP)を9回、アート・ロス・トロフィー(得点王)を10回、テッド・リンジー賞(選手間投票MVP)を5回、レディ・ビング賞(フェアプレー)を5回、そしてコーン・スマイス賞(プレーオフMVP)を2回受賞しました。

 さらに、スタンレーカップを4度制覇し、その偉大な功績により1999年にはホッケーの殿堂入りをしています🏅。

🥅カーティス・ジョセフ:「Cujo」の愛称で知られる名ゴールテンダー

 “クージョ3”ことカーティス・ジョセフは、NHL史上でもトップクラスのゴールテンダーの一人🥅。通算943試合に出場。成績は454勝352敗96引き分けで、セーブ率.906%、1試合平均失点2.79という安定した守りを誇りました。

 6回のオールスター選出に加え、カナダ代表としてオリンピックにも出場。5度もベジーナ・トロフィー(最優秀ゴールテンダー賞)のトップ5に入り、1999-2000シーズンにはリーダーシップと人道的貢献を評価され、キング・クランシー記念トロフィーを受賞しています。

🎯ティム・カー:フライヤーズ史上屈指のスコアラー

 1980年にフィラデルフィア・フライヤーズと契約したティム・カーは、チーム史上でも屈指の得点力を誇る選手です🏒。4年連続で50ゴールを達成し、通算では655試合で370ゴール、674ポイントを記録しています。

 オンタリオ州ウィンザー出身のカーは、3度のオールスター選出を誇り、1988-89シーズンにはマスタートン・トロフィー4(献身・スポーツマンシップ・復活選手賞)を受賞しました。また、NHL記録である「シーズン最多パワープレーゴール(34)」や、フライヤーズの「レギュラーシーズン最多ハットトリック(17)」など、複数の記録も保持しています。

🎯ジョー・マレン:安定した得点源

 ジョー・マレンは1979年にセントルイス・ブルースと契約し、16年間のNHLキャリアで安定した得点力を発揮しました🏒。彼はピッツバーグ・ペンギンズ、セントルイス・ブルース、カルガリー・フレームス、そして最終的にはボストン・ブルーインズでプレーし、通算1,602試合で502ゴール、1,063ポイントを記録。

 マレンはキャリアの中で7回も40ゴール以上を記録しており、1988-89シーズンには51ゴールを達成。通算では502ゴール、1,063ポイントを1,602試合で積み上げました。オールスターには9回選出され、レディ・ビング・トロフィー5を2回受賞。2000年にはホッケーの殿堂入りを果たしました。

🎨アダム・オーツ:驚異のアシストメーカー

 ドラフト外から1985年にデトロイト・レッドウィングスと契約したアダム・オーツは、NHL史上でもトップクラスのプレイメーカー🏒。19年間のキャリアで、オーツはボストン、ワシントン、デトロイト、セントルイス、アナハイム・マイティダックス、フィラデルフィア、そしてエドモントンと、計7チームでプレーしました。

 キャリア1,337試合で1,079アシストを記録し、リーグアシスト王に3度輝いています。スタンレーカップこそ手にできませんでしたが、通算1,420ポイントは歴代20位。これらの功績が評価され、9回のオールスター選出と2012年のホッケー殿堂入りもその実力の証です。

NHLを見始めた時、オーツは晩年だったけど、アシストの速さ&上手さは全く衰えていなかった。

🛡️ブライアン・ラファルスキ:信頼のディフェンス

 NHLでのキャリアはわずか11シーズンでしたが、ニュージャージー・デビルズとデトロイト・レッドウィングスで、安定した守備力と攻撃力を兼ね備えた名ディフェンスマンとして活躍したブライアン・ラファルスキ🏒。ラファルスキは6度オールスターに選出され、ノリス賞(最優秀ディフェンスマン)とレディ・ビング賞の候補常連でもありました。

 833試合で79ゴール、436アシストの計515ポイントをマーク。プレーオフでは165試合で100ポイントを記録し、プラス42のプラスマイナス評価も示すように、ポストシーズンでも非常に信頼される選手でした。3度のスタンレーカップ制覇も誇ります🏆。

アメリカ代表の28番。デビルズ時代の膝の怪我だったかなぁ、それの影響で現役が短かったのが残念。

🇸🇪ボリエ・サルミング:欧州選手のパイオニア

 1973年にトロント・メープルリーフスと契約し、16シーズンを過ごしたボリエ・サルミング🇸🇪(その後1年間、デトロイト・レッドウィングスに在籍)。当時、「ヨーロッパの選手はフィジカルに弱い」という偏見6が根強くありましたが、サルミングはそのイメージを完全に覆した存在です。

 フィジカルでタフなプレースタイルと得点力を兼ね備え、キャリア初期には10〜20ゴールのシーズンを6度経験。通算1099試合で768ポイントを獲得し、9回のオールスター出場。ノリス賞投票では7回トップ5入りし、1996年にホッケー殿堂入りを果たしました。

 さらに、2015年にはメープルリーフスのレジェンドとして「レジェンズ・ロウ7」に彼を加え、銅像が建てられ、その名を球団の歴史に永遠に刻んでいます✨。

🏆マーティン・セントルイス:華麗なスコアラー

 “マーティ”ことマーティン・セントルイスは1998年にカルガリー・フレームズと契約しましたが、同チームでの出場はわずか2シーズン弱の出場にとどまりました。その後、タンパベイ・ライトニングとニューヨーク・レンジャーズでプレーし、16シーズンにわたるNHLキャリアを築きました🏒。

 1,134試合で6シーズンにわたり30ゴール以上をマークし、最高で43ゴールを記録。得点王(アート・ロス・トロフィー)には2度輝いています。オールスターには10回選出され、テッド・リンジー賞とレディ・ビング賞を3度獲得。2003-04シーズンにはスタンレーカップを制し、2018年にホッケー殿堂入りを果たしています🏅。

🇨🇦ピーター・スタストニー:カナダに亡命し成功したスター

 1980年にカナダに亡命し、ケベック・ノルディクス8と契約したピーター・スタストニーは、そこからNHLでの輝かしいキャリアをスタートさせました。14年間のキャリアでノルディクス、ニュージャージー・デビルズ、セントルイス・ブルースに所属しました。

【追記】スタストニーのカナダに亡命について

 当時の母国チェコスロバキアは共産主義国家であり、国民の自由は厳しく制限されていた。スタストニーは、この体制に公然と異議を唱えることもあり、政府から「黙るか、プレーしないか」という究極の選択を迫られるほど。彼自身、西側の文化、特にNHLへの強い憧れを抱いており、密かに『The Hockey News』を密輸して読むほどだった。

 また、彼の妻が妊娠しており、その子供を共産主義体制下で育てたくないという思いも、亡命を決意する大きな要因となる。

 ノルディクスは、1979年のドラフトで彼の弟アントンを指名しており、彼ら兄弟をNHLでプレーさせたいという強い意向を持っていた。1980年8月、チェコスロバキア代表チームがオーストリアのインスブルックでトーナメントに参加していた際、ピーターとアントンはノルディクスの関係者と秘密裏に接触し、亡命計画を実行。

 彼らはチェコスロバキアの秘密警察の目を掻い潜り、カナダ大使館とオーストリア警察の助けを借りて、まるでスパイ映画のような劇的な脱出劇を演じ、カナダへ。この亡命は、東側諸国のホッケー選手がNHLに移籍する道を切り開く画期的な出来事となり、その後のNHLの国際化に大きな影響を与えた。スタストニー自身も、後に「人生で最高の決断だった」と語っている。

 6回のオールスターに選ばれ、977試合で450ゴール、1,239ポイントを記録。スタンレーカップは獲得できなかったものの、プレーオフでは93試合で105ポイントを獲得し高いパフォーマンスを発揮。1980-81シーズンにはカルダー賞(新人王)を受賞し、1998年にホッケー殿堂入りしています。

讃岐猫
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🏒スティーブ・トーマス:「スタンピー」の愛称で知られるベテラン

 “スタンピー9”の愛称で親しまれたスティーブ・トーマスは1984年5月にトロント・メープルリーフスと契約し、その後20シーズンにわたる長いNHLキャリアを築きました🏒。シカゴ・ブラックホークス、メープルリーフス、ニューヨーク・アイランダース、ニュージャージー・デビルズ、アナハイム・マイティダックス、デトロイト・レッドウィングスと、計6チームでプレー。

 通算1,235試合で421ゴール、933ポイントを挙げ、2度のオールスター選出経験があります。スタンレーカップは獲得できなかったものの、プレーオフでは174試合で107ポイントを記録するなど、勝負強い選手としても知られています。

まとめ

 NHLで成功する道は、必ずしもドラフトから始まるわけではありません。努力とチャンスをつかんだ選手たちは、自らの実力で道を切り拓いてきました。彼らのキャリアは、ホッケーの世界がどれだけ多様で奥深いかを物語っています。これからも、思いがけないスターの登場に注目です!

讃岐猫
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【註釈】

  1. NHLにおいて、毎年リーグで最も優れたディフェンスマンに贈られる賞である。正式名称はジェームズ・ノリス記念トロフィー。1953-54シーズンから授与され、全米ホッケー記者協会(PHWA)の投票によって選出される。攻撃と守備の両面でチームに大きく貢献した選手が対象となり、ディフェンスマンにとって最高の栄誉の一つである。
    ↩︎
  2. Owen Sound Attackは、カナダのオンタリオ州オーウェン・サウンドを本拠地とする、オンタリオ・ホッケー・リーグ(OHL)所属のジュニアアイスホッケーチーム。

     1989年にオーウェン・サウンド・プレーターズとして設立され、2000年に地域主導でチームが購入された際に現在の名前に変更された。J. D. マッカーサー・アリーナ(ハリー・ラムリー・ベイショア・コミュニティセンター内)をホームアリーナとしている。

     2011年には初のOHLカンファレンスチャンピオンシップとJ.ロス・ロバートソン・カップを獲得した。過去には多くのコーチや著名な選手を輩出し、NHLにも複数の卒業生を送り出している。
    ↩︎
  3. スティーヴン・キングの小説『クージョ』に登場する狂犬「クージョ」に由来する。ジョセフのアグレッシブでパックに果敢に飛び出す激しいプレースタイルが、狂犬のイメージと重なり、このニックネームが定着した。
    ↩︎
  4. NHLにおいて、毎年「最高のスポーツマンシップ、忍耐力、そして献身」を最もよく体現した選手に贈られる賞である。1968年に試合中の負傷で亡くなったビル・マスタートン選手を記念して設立された。

     怪我や病気、個人的な困難など、逆境を乗り越えてホッケーへの情熱を示した選手が、全米ホッケー記者協会(PHWA)の投票により選出される、人間性に焦点を当てた意義深い賞である。
    ↩︎
  5. 毎年「最も優れたスポーツマンシップと紳士的な行動を、高いプレーレベルと合わせて示した選手」に贈られる賞である。カナダ総督の妻であったレディ・ビングによって寄贈され、1924-25シーズンから授与されている。

     全米ホッケー記者協会(PHWA)の投票により選出され、反則が少なくフェアプレーを重んじながらも、チームに貢献した選手が評価される。ホッケーにおける「紳士のゲーム」の精神を体現する、名誉ある賞である。
    ↩︎
  6. 20世紀後半のNHLにおいて、「欧州人選手はNHLで成功するにはソフトすぎる」というステレオタイプが存在した。これは主に、北米ホッケーのフィジカルで激しいプレースタイルと、より広いリンクで技術と戦術に重きを置く欧州ホッケーとの違いに起因する。

     狭いNHLリンクでは激しい接触が避けられず、フィジカルの強さが重視されたためである。文化的な認識の違いも影響したが、1980年代以降、多くの欧州人スター選手がNHLで成功を収め、このステレオタイプは過去のものとなった。
    ↩︎
  7. メープルリーフスのホームアリーナ、スコシアバンク・アリーナの外に設置されたブロンズ彫像群。チームの歴史に名を刻んだ偉大な選手たち(ジョニー・バウアー、ダリル・シットラー、マッツ・サンディンなど計14体)を称え、その功績を永く記憶するために作られた。

     ファンにとっては、チームのレジェンドを間近に感じ、敬意を表する人気のスポットである。
    ↩︎
  8. かつてカナダのケベックシティを本拠地としていたプロアイスホッケーチーム。1972年にWHA(World Hockey Association)の創設チームとして誕生し、1979年にNHLに参入した。ミシェル・グーレやピーター・スタストニーらを擁し、モントリオール・カナディアンズとの激しいライバル関係(「バトル・オブ・ケベック」)で知られた。

     しかし、財政難により1995年にコロラド州デンバーへ移転し、コロラド・アバランチと改称。移転初年度にスタンレーカップを獲得した。
    ↩︎
  9. この愛称で呼ばれた理由は、彼の体格に由来すると言われている。「Stumpy」という言葉は、英語で「ずんぐりした」「短い」といった意味合いを持つ形容詞。スティーブ・トーマスは、NHLの選手としては比較的小柄ながらも、非常に力強く、粘り強いプレースタイルで知られていた。

     この「小柄ながらも頑丈で、力強い」という彼の特徴が、「Stumpy」という愛称に繋がったと考えられている。 ↩︎
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