はじめに
「ネーミング・ライツ」の言葉が市民権を得て、もうだいぶ経過しますが、当初は「そんなんで名前売れるの?」とか、ずっと同じ名前の方が親しみも沸くんだけどな…と思いました。
でも、この令和の世の中になっても、その流れが途切れないということは、それなりの効果があるからでしょう。
企業名の他には、人名を冠したスタジアムも東西を問わず多く見られるようになり、各スポーツにおける偉大なレジェンドの功績を永遠に忘れない意味では、とても意義深いことだと思います。
今回は、NHLで4度の優勝を経験した後、地元であるウィニペグに戻り、まだNHL加入前のウィニペグ・ジェッツでキャプテンを務め、引退後、ホッケーを通して地元の文化興隆やボランティア活動に余生を捧げたレジェンド、アブ・マクドナルドの物語です。
記事に出てくるけど、
自治体の積極的なバックアップが素晴らしいにゃ。
引用元:NHL.com「Ab McDonald Arena honors Winnipeg icon, four-time Stanley Cup champion」。
アブ・マクドナルドとは?
スタンレーカップで4度の優勝を果たし、ワールドホッケー協会の草分け的存在でもあるアブ・マクドナルドは、ウィニペグ市とウィニペグ・ジェッツの親会社であるトゥルーノーススポーツ+エンターテインメント(略称:TNSE)によって功績を讃えられ、金曜日、ウィニペグ・ホッケーの伝説にちなんで、セントジェームズシビックセンターアリーナを改名しました。
※トゥルーノーススポーツ+エンターテインメント=ウィニペグで注目を集めるコンサートやエンターテイメント活動を積極的に行う。NHLチームをウィニペグに誘致・移転させた会社でもある。
※セントジェームズシビックセンターアリーナ=カナダのマニトバ州ウィニペグのセントジェームス地区にある多目的レクリエーション施設。複合施設には、屋内アイスホッケーアリーナ、スイミングプール、講堂がある。
選手としての経歴(その1)
生まれた時はアルビンでしたが、誰にとっても「アブ」であったマクドナルドは、14シーズンにわたるNHLキャリアの中で、1958年、1959年、1960年にモントリオール・カナディアンズで、1961年にシカゴ・ブラックホークスで、スタンレーカップを4年連続勝ち取ったことで有名でした。
NHL6チームを渡り歩いた彼は、新設チームだったピッツバーグ・ペンギンズの初代キャプテンでもあり、1967年10月11日のカナディアンズ戦で、アンディ・バスゲートが決めたチーム史上初のゴールをアシストしました。
※アンディ・バスゲート=右ウィング。NHLとWHL(ウェスタン・ホッケー・リーグ)の両方で最優秀選手賞を受賞。ゴールテンダーがフェイスマスクを付けるきっかけになった選手とも。
1972年、選手生活の晩年にリーグを変更し、マクドナルドは創設間もないWHA(ワールド・ホッケー・アソシエイション、1972~1979に存在した北米のプロ・アイスホッケーリーグ)ウィニペグ・ジェッツの初代キャプテンに指名されました。
同年10月12日に初ゴールを決め、ニューヨーク・レイダースとのアウェイ初戦で新チームのために達成した大きな出来事を、マクドナルドは決して忘れませんでした。
その夜、ウィニペグの家に戻ると、マクドナルドの妻であるパットが、夫婦の5番目の子供であるクリスティーナを出産していました。
※ニューヨーク・レイダース=WHAの創設メンバー。最初のシーズン終了後、所有権の引継ぎが行われ、ニューヨーク・ゴールデン・ブレイズとなる。
偶然とはいえ、出産と初ゴールが重なるなんて、
スゴイにゃ!
引退後の活動
マクドナルドは、現在も地元やマニトバ州全域で称賛されるチャンピオンであり、そのボランティア活動においても慕われています。
彼の影響は今も感じられており、2018年9月4日に82歳で亡くなった後、彼の家族が彼の名前で作った財団の恩恵を、多くの地元の若者が受けています。
※マニトバ州=州都でありかつ最大都市であるウィニペグを有する。広大な大平原があり、全く山を見ることのできない土地でもある。
市を挙げての行事
COVID-19のパンデミックで進行が遅れてしまいましたが、アリーナにおける彼を讃える行事は、2019年10月から計画されていました。
そして、地域委員会と1985年にマクドナルドを名誉会員としたマニトバ・ホッケー殿堂から提示された要請について、ウィニペグ市議会は全会一致で同意しました。
マクドナルドが数十年にわたり名誉コーチ、ボランティア募集、指導者、委員会メンバーを務めてきたスペシャル・オリンピックス・マニトバによって、このキャンペーンは当初から支援されていたものです。
※スペシャル・オリンピックス=知的発達障害のある人の自立や社会参加を目的として、日常的なスポーツプログラムや、成果の発表の場としての競技会を提供する国際的なスポーツ組織。
ウィニペグの計画・不動産・開発部門において、歴史的遺産の管理職を務めるマレー・ピーターソンは、「アブが亡くなったとき、誰もが深呼吸をして、『私たちは本当に何かをする必要がある』と言いました」と述べています。
「これは偉大な人物を称えるための素晴らしいプロジェクトです」。
アブの社会活動が実を結び、
次の世代へ受け継がれた瞬間だにゃ。
今でもアブ・マクドナルドに会える
セント・ジェームズ・シビック・センターを訪れた人たちは、マクドナルドのキャリアに関する画像、物語、プレーヤーとしての記録を展示する新しいロビーで迎えられます。
アニコ・サボは、ピーターソン、NHL、マニトバ・スペシャル・オリンピックス、マニトバ・ホッケーの殿堂からの援助を得て、この展示スペースを設計しました。
スコット・ギリンガム市長は除幕式で「マクドナルドは、ウィニペグのホッケーにおける真の伝説の一つだ」と述べました。
「このアリーナの名前を変更することは、この街を代表するホッケー界の偉大な人物にふさわしい栄誉であり、これらの展示物は、未来の選手たちに彼の物語を伝えることになるでしょう」。
ロビーの設置作業は最近のセンター改修中に行われ、施設が改善され、便利性が向上し、複合施設内のスペースが一新されました。14,500ドル(日本円で約200万円)の設置費用は、市の土地寄付積立金から拠出されました。
二つの壁画
また、アブ・マクドナルド・アリーナ内にある、TNSEから寄贈された2つの壁画も公開されました。TNSEホッケー部門のクリエイティブ・リーダーであるマーク・ゴメスがデザインしたこの壁画は、マクドナルドの現役時代の写真を使用し、ジェッツでの活躍とジェッツの殿堂入りを記念しています。
マクドナルド家は、声明で「父が住み、愛した街のアリーナに彼の名前を付けることで、父の遺産が記憶されることは非常に光栄だ」と述べました。
「彼はその優れたホッケーキャリアで尊敬を集めましたが、彼の最大の特質は、ウィニペグの人々やマニトバ州のコミュニティをいかに気遣い、サポートしたかということです」。
「ウィニペグの人々が彼の物語を学べるようにと、ウィニペグ市とTNSEが、ディスプレイを提供してくれたことに、私たち家族は感謝しています」。
本物が観たいにゃあ。NHLの本気の試合も観たい…。
選手としての経歴(その2)
NHL加入前
1936年2月18日、七人兄弟の末っ子として生まれたマクドナルドはウィニペグのウェストン地区で育ち、15歳の時、マニトバ州セントボニフェイス(マニトバのフランス人街の中心地)にあるカナディアンズが後援するジュニアチームでホッケーのキャリアをスタートさせました。
その後、1958年のスタンレーカップ・プレーオフの2試合に、アメリカン・ホッケー・リーグのロチェスターからカナディアンズに呼ばれ(モントリオールがマクドナルドの権利を所有していたため)、優勝トロフィーにその名が刻まれるまでは、モントリオールやシカゴのファーム・システムでプレーしていました(当時は、チームをシャッフルしてプレーすることは珍しくなかった)。
※ロチェスター=正式名称はロチェスター・アメリカンズ。ニューヨーク州ロチェスターをホームタウンとする。提携チームは、バッファロー・セイバーズである。
NHL加入後
1958年から72年の間に、マクドナルドはカナディアンズ、ブラックホークス、ボストンブルーインズ、デトロイトレッドウィングス、ペンギンズ、セントルイスブルースの左ウィングとして762試合で430ポイント(182ゴール、248アシスト)、プレーオフ84試合で50ポイント(21ゴール、29アシスト)を獲得しました。
1958-59シーズンのカルダー・トロフィー (NHLの新人王) の投票で3位となり、そのシーズンはカナディアンズのチームメート、ラルフ・バックストローム(センター、 NHLで20ゴールのシーズンを7回、WHAで30ゴールのシーズンを2回)が受賞しました。
1960年6月7日、マクドナルドはカナディアンズとブラックホークスの間で行われた9人の選手のトレードに含まれ、シカゴでスタンレーカップの連勝を続け、特に1961年のチャンピオンチームの一員として、センターのスタン・ミキタ(センター、 NHL史上において、賞の獲得総数で屈指の成績を残す)、右ウイングのケン・ワラム(右ウィング、現役14シーズン、ブラックホークス一筋)とともに「スクーターライン」の左サイドを担当しました。
※スクーターライン=当初は、ミキタ、ワラム、そしてベテランのテッド・リンゼイ(左ウィング)でラインを形成していた。リンゼイの引退後、トレードで加入したのが同じポジションのマクドナルドだったのである。
オリジナルにマクドナルドは入っていなかったが、優勝を掴んだのは2代目スクーターラインとなる。ただ、左ウィングは変わりやすく、マクドナルドはブルーインズにトレードされている。
強豪カナディアンズの歴史的とも言うべき5年連続タイトル獲得の記録を、ブラックホークスが準決勝で止めた後、レッドウィングスに5対1で勝利した第6戦、マクドナルドはカップを決定づけるゴールを決めました。
その後、WHAのジェッツで最後の2シーズン (1972-74) を戦い、2019年2月26日、彼の死後、殿堂入りとなりました。
マクドナルドは、1967年から自分と家族が住む、セントジェームスで引退した後、ボランティアで2つのジュニアチームのコーチを務め、NHLのOBチームや地元の古参チームでプレーし、地域社会で精力的に活動していました。
将来、きっと「第2のアブ・マクドナルド」が出てくるだろうにゃ。
まとめ
日本のプロ・スポーツも「地域密着」を掲げ、それが効果を挙げていますし、引退した選手がそのまま地元に居を構え、「地域振興」に携わっているパターンも出てきています。
また、メジャーなリーグから一旦身を引いた後、地方の小さなクラブ・チームに籍を置き、自らも現役復帰して活躍しながら、チームを育てていくパターンもあります。サッカーの高原選手がいい例です。これからも、こういう活動がどんどん活発になってほしいものです。
今回のアブ・マクドナルドはそれら全てを一人でやりこなしており、中途半端に終わらせたものは一つもありません。だから、自治体を挙げて、アブの業績を讃えているのです。
そして、彼の業績は、NHL現役選手にとっても、「引退後どうすべきか」のいいお手本になるでしょう。
ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!