はじめに
このブログは、NHLの「今」を知るためにやっているんですが、時には「昔、どんな事があったんだろう」ってのを知りたくなる時があります。
以前、1972年のカナダvs.ソ連(当時)の記事を書きましたが、それ以降も、この激しいリンクでの激突についてはNHL.comで不定期に解説されています。それだけ8試合全てに見どころが多かったのでしょう。
今回はさらに古い1920年代の話。NHLがやっと軌道に乗り始めていた時期と言っていいでしょう。少しずつチームも増えていったわけですが、今回はリンクでなく、ニューヨーク・レンジャース創立時の「経営者と現場指導者の熱いバトル」に焦点が当たっています。
約100年前、理想のチームを作りたいがために火花を散らす男2人。志の高さは共通してるんですけど、どこかでボタンを掛け違えたんでしょうね…。
引用元:NHL.com「Rangers had tumultuous first training camp in 1926」。
96年前のニューヨーク・レンジャース
伝説的なホッケー・リポーター、スタン・フィシュラーがNHL.comに毎週スクラップブックを書いています。「The Hockey Maven(ホッケーの専門家)」 として知られるフィシュラーは、毎週水曜日に自身のユーモアと見識を読者と共有しています。
今週、NHLのトレーニングキャンプが進行中ですが、フィシュラーは、(それに合わせて)ニューヨーク・レンジャーズの初めてのトレーニングキャンプと、1926-27シーズンに入る準備期間に起きた経営陣の綱引きについて、96年前を振り返っています。
NHLの歴史の中で、1926年、初めてのキャンプに入ったニューヨーク・レンジャーズほど荒れたチームはありませんでした。組織のトップの権力闘争が原因でした。
100年くらい前も、令和の現代も、
権力闘争は終わらないのだにゃ。
ハモンドとスマイス
マディソン・スクエア・ガーデンの社長であるジョン・ハモンド大佐(1880‐1939)は、1926年3月、レンジャーズがNHLに正式加盟した時、レンジャーズの責任者となりました。
大佐の最初の仕事は、チームをまとめる人を見つけることでした。ハモンドは助けを必要としていたので、すでにリーグに入っていたボストン・ブルーインズ初代オーナーであるチャールズ・アダムス(1876‐1947、食料雑貨品チェーンのオーナーでもある)に頼らざるを得ませんでした。
「トロントにはコーン・スマイス(1895‐1980、プレーオフ最優秀選手に贈られるコーン・スマイス賞は彼の名前から。メープルリーフ・ガーデンの建設者)という僕の仲間がいて、僕と同じくらい良い大学のチームを率いています」 とアダムズは助言したのです。「(そのチームを)試してみないか?」。
ハモンドは気性の激しいことで有名なスマイスに連絡を取り、1万ドル(当時の貨幣価値で約600万円?)の給料と経費で複数年の契約を申し出ました。
スマイスの野望
「待ち望んでいたホッケー界に進出する大きなチャンスでしたね」 とスマイスは自伝で述べています。「僕はハモンドのためのチームを探しに行かなければなりませんでした。それは僕も経営に参加するクラブになるだろう、と思ったよ」。
スマイスは、当時7チームあったNHLの選手全員を知っていましたが、彼の選手獲得を巡る競争は激しいものでした。ニューヨークにはすでにマディソン・スクエア・ガーデンでプレーするクラブ、アメリカンズがあっただけでなく、デトロイトとシカゴにも新しいフランチャイズ権が与えられていたからです。
「私の強みはアマチュア・ホッケーのコーチをしていて、プレーが成長している選手達を見ていたことです。私の知っていた中にはNHLのレベルに十分な選手もいました」。
当時は、スマイスみたいに、
NHLで一発当ててやろう!と思ってた人、
多かったんだろうにゃ。
レンジャースに集う名選手達
スマイスの手腕と勧誘活動のおかげで、歩き始めたレンジャーズのロスターが一人ずつ増えていきました。最初にサインしたのはゴールキーパーのローン・シャボット(1900‐1946、アイスホッケー選手として初めて「タイム」誌の表紙を飾る)で、その後ディフェンスのチン・ジョンソン(1898‐1979、鎖骨骨折でもプレーする屈強なディフェンスマン)とタフィー・アベル(1900‐1964、1924年のフランス冬季五輪の銀メダリストであり、米国選手団旗手)が続いて加入。
得点源として、レンジャーズは、以前に廃止されたサスカトゥーン(カナダサスカチュワン州中央部の街)のチーム(サスカトゥーン・クレセントのこと)でエース格の活躍をしていた、ビルとバンのクック兄弟(兄:ビル、1895‐1986、初代キャプテンであり、フランチャイズ初ゴールをマーク。弟:バン、1903‐1988、兄と共に「ブレッド・ライン」を形成、AHLでのコーチとしての勝利数歴代2位)とも契約。
ビル・クックは、フランク・バウチャー(1901‐1977、後にレンジャースGM)というバンクーバーのセンターを推薦し、最終的にはNHLの歴史の中で最高のラインの一つでクック兄弟とプレーすることになりました。
スキルの面では、ニューヨークの2軍、マレー・マードック(1904‐2001、1938~1965年まで イェール大学のコーチ)、ポール・トンプソン(1906‐1991、ブラックホークスでも2度スタンレーカップ)、ビリー・ボイド(1898‐1940)はNHLの平均を上回る能力を持っていました。マードックはNHLの 「鉄人」 として頭角を現し、11シーズンにわたってレンジャーズの試合を欠場することはなかったと言われています。
将来殿堂入りする可能性のある4人もの選手を含む全ラインナップに対して、レンジャーズが支払った価格は32,000ドル(約2千万円?)だった。
「私は2つの完全なチームを雇っていました。1つはレンジャーズのチームで、もう1つはスプリングフィールドのファームチームで、アメリカンリーグのチャンピオンシップで優勝しました」 とスマイスは言った。
ハモンドとスマイスの亀裂
手頃な値段を考えると、ハモンド大佐は有頂天になっていたはずです。ところが、逆に「ガーデンのボス」は激怒していたのです。ハモンドの新しいチームは惨めに失敗するだろうし、スマイスはあまりにも多くのアマチュアと契約していると何人かの友人が彼に言っていたからです。
ある友人は、レンジャーズはトロント・セントパトリクス(1919年創立)から放出され、移籍可能になっていたベーブ・ダイ(1898?‐1962、1920年代NHLを代表するゴール・スコアラー。野球やサッカーもプレイ)という名のビッグ・スコアラーを必要だと大佐に助言しました。ハモンドはそんなスターが欲しかったのですが、スマイスは断固としてそうしなかったのです。
ハモンドは「スマイス!この程度のアマチュアの寄せ集めで、シーズンを始めることはできないぞ!」と、きっぱり言い切ったのです。
スマイスはダイに関するすべての情報を知っていましたが、ハモンドはベーブについて小耳に挟んだだけで、それが彼らの綱引きの原因となりました。
「トロントは私にダイをくれようとした」とスマイスは回想し、「私は断った。彼は私の望むタイプの選手ではなかったからさ。個人主義者で、チームマンとしては十分ではなかったんだ。
ハモンドは私に電話をかけ、ダイとサインするように命令したが、私は拒否したんだよ。結局、ベーブはシカゴに売られ、10月中旬まで私は西トロントのラビナ・ガーデンズでレンジャーズに練習をさせてました」。
スター選手の処遇をめぐる意見の対立、
ありがち、ありがち。
勝手に決められていた後任
スマイスが知らなかったのは、怒り狂ったハモンドが、バンクーバーの元スター選手で、後にホッケーマネージャーとなるレスター・パトリック(1883‐1960、スタンレーカップ・ファイナルに出場した選手の中で最年長記録(44歳)を持つ)とつながっていたということでした。
大佐はパトリックにレンジャーズのコーチの仕事と、マディソン・スクエア・ガーデンでの会議のためにマンハッタン行き列車のチケットを提供しました。
パトリックは到着し、年間18,000ドル(約1千100万円?)という途方もない額の契約にサインし、大佐に随行してトロント行きの列車に乗りました。
ハモンドはまた、トロントのユニオン駅でパトリックに会うよう、スマイスに言いました。ニューヨーク・セントラル・エクスプレスが乗客を降ろした後、スマイスはハモンドと自分の後任者に挨拶する羽目になったのです。
「私は打ちのめされた、穏やかに言えばね」とスマイスは回想しました。「私が政治家だったらレンジャーズに固執したでしょうが、私は政治家ではなかったからね」。
駅のホームに1人佇むスマイス…、
そんな情景がパッと思い浮かぶにゃ!
監督交代の結果
予想外の監督交代のショックが消えた後、レンジャーズは再編成されました。そして、スマイスが予測したように、レンジャーズは競争に打ち勝つ力があっただけでなく、アメリカン・ディビジョンを1位でフィニッシュしたのです。
創立からわずか2年目で、スマイスが選手を集め、パトリックがコーチを務めたレンジャーズは、1927-28年のスタンレーカップで優勝しました。
「レンジャーズの仕事を失ったのは幸運だった」 とスマイスは認めました。「ニューヨークで僕が今までにできなかった仕事を、レスター・パトリックはしてくれたんだ。僕では無理だから、ハモンド大佐は僕をクビにしたんだよ!」
スマイスはトロント・メープルリーフスに雇われ、彼が集めたチームは1932年のスタンレー・カップで優勝しました。
だから、彼の解雇は、レンジャーズとメープルリーフスにとってウィン・ウィンの状況と言うべきでしょう。それは、レンジャーズというチームを作るために過した、嵐のような最初のトレーニングキャンプにより作られたにもかかわらず…。
まとめ
まるで、1本の映画かドラマができそうなストーリー展開でしたね。実際、レンジャースに集まったレジェンド選手達の経歴を読んでいると、あまりにも凄過ぎて、「1人ずつメンバーが増えていくシーン」を想像していたら、鳥肌が立ってきました。
ハモンドもスマイスも理想とはちょっと違ってたけど、スタンレーカップを手中に収めた者同士となった訳です。これもすごい運命だと思いませんか?2人が仲違いすることなく、ずっと友情をベースにしてレンジャースへ愛情を傾けていたら、どんなチームになっていたのでしょうか。
日本にNHLファンは多くいても、昔話となると、なかなか触れる機会はありません。公式HPでは、不定期でいいから、日本のファンのあまり知らないレジェンド話をどんどんアップしてもらいたところです。
ドラフトもフリー・エージェントもなかった時代。
選手1人を加入させるだけでも、
もの凄い苦労だったんだろうにゃ。
ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!