はじめに
NHLの長い歴史の中でも、デトロイト・レッドウィングス一筋で活躍したアレックス・デルヴェッキオは、まさに伝説的な存在。彼のキャリアと人柄は、今も世界中のホッケーファンに愛されています。
スタンレーカップ3回、殿堂入り、そして引退後も変わらぬ影響力──NHL、デトロイト・レッドウィングスのレジェンドの足跡は偉大!です。その功績と生き様を振り返ります。
レッドウィングスの偉大な選手、アレックス・デルヴェッキオを偲んで
参照記事:The Hockey Writers「Remembering Red Wings Great Alex Delvecchio」
デルヴェッキオが遺したもの🟥🏒
デトロイト・レッドウィングスの歴史を語るうえで欠かせない象徴的なラインといえば、「グラインド・ライン1」や「プロダクション・ライン2」がまず思い浮かぶでしょう。
その中でも、若いホッケーファンにとって、今ではあまり語られなくなった「プロダクション・ライン」に欠かせなかったのが、アレックス・デルヴェッキオでした。2025年7月1日、そんな彼の訃報が届き、多くのホッケーファンが彼の偉大な足跡を思い出し、彼がレッドウィングスにとってどれほど重要な存在だったのかを改めて見つめ直す機会となりました。
訃報を伝えるニュース映像です。20年以上同一チームに在籍…今のサラリーキャップ制度じゃ考えられない長さです。
デルヴェッキオはNHLでのキャリアをスタートさせた1952年、NHLでのルーキーシーズンにしていきなりスタンレーカップを手にし、その頂点に立ちました。
そして、1952年から1974年までの長いキャリアを通じて、彼はチームの成功に大きく貢献し、1952年、1954年、1955年と3度もカップを獲得🏆。彼はなんと24シーズンもの間、ずっとレッドウィングス一筋でプレーし続けました。
その間、彼は伝説の「プロダクション・ライン」の一翼を担う形で活躍。シド・エイベル3のポジションを引き継ぎ、ゴーディ・ハウ4やテッド・リンゼイ5と並んでプレーし、強烈な攻撃力でリーグに名を轟かせました。このラインは当時、まさにリーグでも屈指の知名度を誇る存在だったんです✨
地味だけど偉大な選手だったデルヴェッキオ✨
チームメイトに大スターが並ぶ中でも、レッドウィングスのトップラインでプレーしたことで、デルヴェッキオは確かな存在感を放っていました。24年間のキャリアで、オールスターゲームにはなんと13回も選出されました⭐️
さらに、彼は1959年、1966年、1969年、「レディ・ビング記念トロフィー」を3度受賞。これは、フェアプレー精神や紳士的なプレー、そして高い技術を持つ選手に贈られる賞です。まさに、内面もプレーも一流な選手でした👏
ファンからは派手なラインメイトに比べて目立たなかったかもしれませんが、同僚の選手たちからの評価は非常に高く、1971年にはフィル・エスポジート6が「デルヴェッキオはリーグで最も過小評価されている」と語っています。それだけ、相手チームの選手たちは彼の実力を誰よりも理解していたということですね💡
引退後も残る記録と功績📊
1974年、デルヴェッキオはスケートを脱ぎ、現役生活に別れを告げたとき、彼はすでにレッドウィングス史上最高の選手の一人としての地位を確立していました。その後も、彼の名前はレッドウィングスの記録にしっかりと刻まれています。
現在でも、球団の歴代記録において攻撃面の主要な部門すべてでトップ5に名を連ねており、出場試合数で3位(1,550試合)、ゴール数でも3位(456ゴール)、ポイント数も3位(1,281ポイント)という驚異的な記録を保持しています。しかもこれは、24年間ずっと同じチームでプレーして達成した記録なんです。すごすぎる…😮
プレーオフでもその存在感は抜群で、球団の歴史において3つの主要部門でトップ10にランクインしています。出場試合数9位(121試合)、アシスト数6位(69アシスト)と、レッドウィングスの歴史の中でもトップクラスの活躍を見せていました。
そして、その功績が認められて1977年にはホッケー殿堂入りを果たし、1991年にはチームからも正式にその功績が称えられ、背番号が永久欠番に。2017年にはNHLの「史上最高の100人の選手」にも選ばれています🌟 まさに伝説級の選手ですね。
氷を離れても消えなかった情熱❄️
現役を引退した後も、数シーズンにわたり、デルヴェッキオはレッドウィングスの組織に残り、今度は氷の外で様々な役割を担いました。1973年から1975年、そして1976年から1977年にはチームのヘッドコーチを務め、1974年からはヘッドコーチとGMを兼任するという大役もこなしていました。
ただ、氷の上で見せたような輝かしい成功とはいかず(一度もプレーオフに進出していない)、ベンチ裏でのキャリアは4シーズンで終わりを迎えることとなりました。
とはいえ、彼の情熱は冷めることなく、引退後も地元コミュニティとの関わりを大切にしていました。さまざまなOBイベントに参加し、リンクに足を運んでは若い世代の成長を見守る姿が見られていたそうです😊
そして2025年、デルヴェッキオはその生涯を静かに終えました。「プロダクション・ライン」の最後の存命メンバーであり、1952年・1954年のスタンレーカップ優勝チームの最後の生き証人でもありました。そのホッケー殿堂入り選手の訃報は、デトロイトだけでなくNHL全体にとって大きな喪失でした。
彼はチームへの忠誠心の象徴であり、過去の世代のホッケー選手たち、そして彼のことを知る若い世代にとっても、模範となる存在であり続けています。デルヴェッキオの名は、これからもホッケー界に語り継がれていくでしょう🏒❤️

90年代に盛り返したものの、70年代〜80年代初期の弱体化した頃と同様、現在のレッドウィングスも低迷期に入っているにゃ。その流れを見てきた、チーム愛に溢れた男・デルヴェッキオを思う時、オールド・ファンは「どんな形でもいいから、スタンレー・カップを掲げてくれ!」と祈っているだろう。
フォートウィリアム出身のデルヴェッキオ、カナダ・デーに逝去
参照記事:cbc.ca7「Red Wings all-star Alex Delvecchio remembered for ‘legendary’ NHL accomplishments」
デトロイトのレジェンド、アレックス・デルヴェッキオを偲んで🟥🏒
スタンレーカップ3回、スポーツマンシップに優れた選手に贈られるレディ・ビング賞3回、1977年にはホッケー殿堂入り。これだけでも十分すごいのに、カナダ連邦オンタリオ州フォートウィリアム8出身のアレックス・デルヴェッキオはそれ以上の存在でした。
デトロイト・レッドウィングス一筋で20年以上プレーし、その卓越したプレーと温かい人柄で多くの人に記憶された選手です✨
2025年7月1日・火曜日、彼はミシガン州ロチェスターの自宅で静かに息を引き取りました。享年93歳。彼の訃報を受けて、ホッケー界では多くの人が彼を偲び、その功績を称えています。
「サンダーベイのホッケー界の伝説が旅立ちました。アレックス・デルヴェッキオの功績を振り返りながら、その長く輝かしいNHLでのキャリアを語ります」
― CBCの朝の番組「Superior Morning9」より
デルヴェッキオは1951年から1973年まで、NHLのデトロイト・レッドウィングスでプレーし続けました。ゴーディ・ハウ、テッド・リンジーという名だたる選手たちとともに「プロダクション・ライン」の一員として活躍し、引退後はチームの監督やGMも務めました。彼の名前は、まさに“デトロイト・ホッケー”そのものだったんです😊
現在、デトロイトのリトル・シーザーズ・アリーナ10には、彼を讃える銅像も立っています。その姿は、ファンの記憶にも、街の風景にも、しっかりと刻まれています。
「私たちがNHLに送り出した125人以上の選手の中でも、彼の成功は群を抜いていました」
― ノースウェスタン・オンタリオ・スポーツ殿堂11のディレクター、ダイアン・イムリー
「彼の業績は、まさに伝説的でした」。
若き日の輝きと、ルーキーイヤーの快挙🌟
デルヴェッキオのすごさは、最初のシーズンからすでに現れていました🏒。なんとルーキーながら15ゴールを記録し、そのうち6ゴールは決勝点!これは当時の新人記録として長く語り継がれるものでした。そして、そのルーキーシーズンの最後にはスタンレーカップを獲得🏆 もう完璧なスタートですよね!
その後もキャリアは順調そのもの。12シーズンにわたってチームのキャプテンを務め、NHLオールスターゲームには13回も出場。これはもう、ただの“ベテラン”ではなく“象徴”と呼ぶにふさわしい存在です。
デルヴェッキオがNHL入りするきっかけとなったのは、スカウトによるトレーニングキャンプでの発見。彼の才能に気づいたのは、当時のゼネラルマネージャー、ジャック・アダムス12でした。「アダムスもフォートウィリアム出身なんです」とイムリー。「アレックスには何か光るものがあったんでしょうね」。まるで運命のような出会いです😲
アダムスは彼を一度オシャワ・ジェネラルズ(OHL)に送り、準備を整えてからNHLへ昇格させました。1951年シーズンの終盤、モントリオール・カナディアンズ戦でデビュー。その直前にホテルのロビーで契約書にサインしたというエピソードも、人柄がにじみ出ています。
「そこからあの素晴らしいキャリアが始まったんです」とイムリーは語ります。「彼は本当に驚くべき選手でした」。
故郷に誇られた存在🎉
1970年6月14日、アレックス・デルヴェッキオは故郷サンダーベイ13で「アレックス・デルヴェッキオ・デー」という盛大なイベントで迎えられました🎉。地元からのこんなにも大きな祝福を受けるアスリートって、なかなかいませんよね✨
「朝食会やパレードが行われて、街全体が彼を祝っていたんです🌟」と語るイムリー。「地元がパレードをしてくれるって、本当に“特別な人”の証なんですよね」と話します😊
そんな彼が亡くなったというニュースには、ホッケー界全体が深い悲しみに包まれました。選手としての活躍はもちろんのこと、人柄でも愛されていた彼の存在は、多くの人々にとってかけがえのないものでした。
ホッケー界全体からの敬意と感謝🙏
NHLコミッショナーのゲイリー・ベットマンは、デルヴェッキオの死を悼む声明を発表しました。
「NHLはこの真のレジェンドの死を深く悼み、ご家族や友人、そして世界中のファンの皆さまに心から哀悼の意を表します」と述べたうえで、彼のことを「優雅なスケーター、巧みなプレーメイカー、そして誰からも愛されたチームメイト」と称賛しました。
レッドウィングスの運営責任者でありCEO、クリス・イリッチ14もチーム公式サイトを通じて追悼のメッセージを発表し、「アレックスは、“レッドウィングスであること”の象徴でした」と述べました。忠誠心、謙虚さ、そして氷上と氷外の両方での高いレベルのパフォーマンス。これこそが、アレックス・デルヴェッキオだったのです。
さらに声明の中では、彼がレッドウィングスのキャプテンとして12シーズンを過ごし、「NHL史上最高の両面(攻守)フォワードの一人」と評されていることに触れ、殿堂入り後もチームのエグゼクティブやアンバサダーとして、レッドウィングスを品格と誇りをもって代表し続けたと語られました。
1991年には背番号「10」が球団によって永久欠番となり、彼の功績は今もチームの歴史の一部として大切に守られています。
テッド・リンゼイの背番号「7」、デルヴェッキオの背番号「10」が永久欠番になる式典の映像です。
「デルヴェッキオ一家、そして彼と関わることのできたすべての人々に、私たちの想いを届けたい。彼の功績は、レッドウィングスの歴史、そして“ホッケータウン”の一部として、永遠に記憶されるでしょう」。
まとめ
アレックス・デルヴェッキオは、記録にも記憶にも残る稀有な存在でした。彼の誠実なプレーと人柄は、ホッケー界の理想像とも言えるでしょう。今後もその偉大な足跡は、NHLとレッドウィングスの歴史の中で語り継がれていきます。

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!
【註釈】
- 主にデトロイト・レッドウィングスで有名になったフォワードラインの概念。ニュージャージー・デビルズの「クラッシュ・ライン」をモデルとして形成された。
このラインの主な目的は、得点を挙げることよりも、フィジカルなプレーと徹底したフォアチェックによって相手チームのトップラインを消耗させることにある。レッドウィングスの4度のスタンレーカップ優勝に貢献。
オリジナルの「グラインド・ライン」は、センターのクリス・ドレーパー(スピードとフェイスオフ能力)、レフトウィングのカーク・マルトビー(チェッキングフォワードとアジテーター)、そしてライトウィングのジョー・コカー(フィジカルとエンフォーサーの役割)で構成されていた。
このラインは、特に1997年のスタンレーカップ決勝でフィラデルフィア・フライヤーズの「リージョン・オブ・ドゥーム」に対して非常に効果的となった。1998年シーズン後にはダーレン・マッカーティがジョー・コカーに代わって加入。
「グラインド・ライン」の選手たちは、派手な得点よりも、チームのために献身的に働き、相手にプレッシャーをかけ続ける、縁の下の力持ちのような役割を担っていた。
↩︎ - デトロイト・レッドウィングスが誇る伝説的なフォワードラインの愛称。これは、ゴーリー・ハウ(ライトウィング)、シド・エイベル(センター)、テッド・リンゼイ(レフトウィング)という3人のホッケー殿堂入り選手で構成。
1940年代後半から1950年代にかけて活躍した彼らは、その圧倒的な得点力と連携プレーで知られ、まるで工場で製品を「生産」するように効率的にゴールを生み出したことから、この名が付いた。
守備や肉体的なプレーに重きを置く「グラインド・ライン」とは対照的に、「プロダクション・ライン」は純粋な攻撃力と得点能力の象徴として、NHLの歴史に名を刻む。
↩︎ - 1943年、1950年、1952年、デトロイト・レッドウィングスの3度のスタンレーカップ優勝に貢献し、「NHL史上最も偉大な100人の選手」にも選ばれている。
1947年に結成された「プロダクション・ライン」は、NHL史上最も支配的なラインの一つとなり、レッドウィングスをNHL記録となる7シーズン連続のレギュラーシーズン1位に導いた。1949年にはリーグの得点王となり、ハート記念トロフィー(MVP)を受賞し、オールスターチームにも選出。
選手引退後も、シカゴ・ブラックホークスの選手兼ヘッドコーチ(NHL史上最後のフルタイム選手兼ヘッドコーチ)を務め、その後はレッドウィングスのヘッドコーチやゼネラルマネージャーとしても貢献した。背番号12はデトロイト・レッドウィングスの永久欠番。
↩︎ - アイスホッケー史上最も偉大で完成された選手の一人。NHLで驚異的な26シーズン、主にデトロイト・レッドウィングスでプレーし、さらにWHAでも6シーズンプレーした。
デトロイト・レッドウィングスの「プロダクション・ライン」はNHLを席巻し、特に1949-50シーズンには、当時守備が重視された時代にもかかわらず、リンゼイ、エイベル、ハウの3人がリーグ得点ランキングで1位、2位、3位を独占するという偉業を達成。
レッドウィングスを4度のスタンレーカップ優勝と、7シーズン連続のレギュラーシーズン1位に導いた。個人としては、リーグ得点王に贈られるアート・ロス・トロフィーを6回、NHL最優秀選手に贈られるハート・トロフィーを6回受賞。1953年にはシーズン95ポイントのNHL記録を樹立し、22シーズン連続で20ゴール以上を記録したNHL記録保持者でもある。
引退時には、801ゴール、1,049アシスト、1,850ポイントはいずれもNHL記録だったが、後にウェイン・グレツキーによって更新された。
ハウのプレー期間の長さも伝説的で、NHLで5つの異なる年代にわたりプレーし、プロホッケーでは6つ目の年代でもプレーした唯一の選手。彼のフィジカルの強さと得点力は、フォワードの理想像を再定義し、真のホッケーアイコンとしての地位を確固たるものにした。
↩︎ - デトロイト・レッドウィングスとシカゴ・ブラックホークスでフォワードとしてプレーし、800ポイント以上を記録し、4度のスタンレーカップ優勝に輝いた。
比較的小柄な体格にもかかわらず、その猛烈でタフなプレースタイルから「テリブル・テッド(恐ろしいテッド)」の異名を取り、彼のプレーはNHLが過度なフィジカルコンタクトを抑制するために「エルボーイング」や「ニーイング」に対するペナルティを導入するきっかけにもなった。
リンゼイは1950年代後半にNHL選手会(NHLPA)の設立を主導し、NHL選手の生活向上に極めて重要な役割を果たした。彼は選手たちが他のスポーツ選手と比べて非常に低い給与しか得られず、適切な福利厚生もないことを発見。
チームオーナーからの強い反対に直面し、キャプテンの座を剥奪され、シカゴ・ブラックホークスにトレードされるという困難に見舞われながらも、ダグ・ハーベイと共に、最低賃金や年金制度などの基本的な権利を要求する選手会設立のために尽力した。
すぐに正式な組合が設立されたわけではないが、彼の努力は1958年の和解につながり、NHLが多くの選手の要求を受け入れ、最終的に1967年に恒久的な組合を形成。彼のこの分野での功績を称え、現在ではNHL選手会によってリーグで最も優れた選手に贈られるテッド・リンゼイ賞が設けられている。
↩︎ - 相手のゴール前で「動かせない存在」として君臨し、様々な角度から得点を量産。本人が「得点は簡単だ。スロットに立って打撃を受け、パックをネットに打ち込むだけだ」と語ったように、その強靭なポジショニングとシュート力が特徴。
また、スケート、スティックハンドリング、強さ、そして長いリーチを兼ね備え、ペナルティキル時には「パックをキープする(rag the puck)」能力も持ち合わせていた。史上初シーズン100ポイント(1968-69シーズンに126ポイント)を超えた選手であり、さらに5シーズン連続で50ゴールを達成した最初の選手でもある。
1970-71シーズンには、当時のNHL記録となる76ゴールと152ポイントを記録。アート・ロス・トロフィー(得点王)を5回、ハート・トロフィー(MVP)を2回受賞し、ファーストチーム・オールスターセンターに6回選出されている。また、1970-71シーズンには1シーズンにおける最多シュート数(550本)という記録も。
ブルーインズを1970年と1972年のスタンレーカップ優勝に導き、全盛期には、ケン・ホッジ(ライトウィング)とウェイン・キャシュマン(レフトウィング)と共に、ホッケー史上最も有名なフォワードラインの一つを形成した。背番号7は1987年に永久欠番。
現役引退後は、ニューヨーク・レンジャーズのコーチやゼネラルマネージャーを務め、タンパベイ・ライトニングの共同創設者となり、初代社長兼ゼネラルマネージャーを務めた。ホッケーの殿堂入りを果たしており、2017年には「NHL史上最も偉大な100人の選手」の一人に選ばれている。
↩︎ - カナダの公共放送「カナダ放送協会(CBC)」が運営する公式ニュース・メディアサイト。英語で最新ニュース、スポーツ、ドキュメンタリー、ポッドキャスト、テレビ・ラジオのライブ配信など幅広い情報を提供している。カナダ国内で最も信頼されているオンラインメディアのひとつ。
↩︎ - かつて独立した都市として存在し、現在はサンダーベイ市の一部となっている。その名は、19世紀初頭にノースウェスト会社が設立した、毛皮貿易における重要な拠点に由来する。この地は、先住民とヨーロッパの貿易業者を結ぶ中心地として、カナダ初期の経済発展に大きく貢献した。
現在、この歴史的な場所は「フォート・ウィリアム歴史公園」として忠実に再現されており、当時の毛皮貿易の様子を体験できる重要な文化遺産となっている。
↩︎ - カナダの国営放送局CBC(カナダ放送協会)のラジオ番組で、オンタリオ州北西部、特にスペリオル湖周辺地域に特化した朝のニュース・情報番組。地域のニュース、天気、交通情報、コミュニティの話題、人々のストーリーなどを深く掘り下げて伝え、地域住民にとって不可欠な情報源となっている。
現在のホストはメアリー=ジーン・コーミエで、CBC Radio Oneで放送中。
↩︎ - デトロイトの中心部にあり、レッドウィングスとNBAのデトロイト・ピストンズの2つの主要プロスポーツチームが本拠地とする多目的屋内競技場。2017年にオープンしたこのアリーナは、最先端の設備を備え、ホッケーやバスケットボールの試合のほか、コンサートなど様々な大規模イベントが年間を通じて開催される。
デトロイトのダウンタウン再開発計画「ディストリクト・デトロイト」の象徴的な存在。
↩︎ - 1978年にカナダのオンタリオ州サンダーベイに設立された。この殿堂は、オンタリオ州北西部出身の、スポーツにおいて優れた功績を残したアスリート、チーム、そしてスポーツ振興に貢献した人々を称え、その歴史を保存することを目的する。博物館としても機能し、地域のスポーツの歴史と文化を伝える重要な施設となっている。
↩︎ - 選手、コーチ、ゼネラルマネージャー(GM)として多岐にわたるキャリアを築き、非常に大きな影響を与えた人物。彼は選手、コーチ、GMの三役全てでスタンレーカップを優勝した唯一の人物として知られる。
選手としては、1918年にトロント・アリーナズ、1927年にオタワ・セネターズでスタンレーカップを2度獲得。フィジカルで荒々しいプレースタイルで知られ、1959年にホッケーの殿堂入りを果たした。
彼が最も大きな影響を与えたのは、デトロイト・レッドウィングスでヘッドコーチとGMを兼任した36年間である。彼はレッドウィングスをコーチ兼GMとして3度、GMとしてさらに4度、合計7度のスタンレーカップ優勝に導いた。
GMとしては、ゴーリー・ハウ、テッド・リンゼイといった伝説的な選手を輩出した強固なファームシステムを構築し、レッドウィングスのレギュラーシーズン7年連続1位(1948年〜1955年)という偉業の立役者となる。その積極的なトレード戦略から「トレーダー・ジャック」の異名も。
彼の功績を称え、1974年にはNHLの最優秀コーチに贈られるジャック・アダムス賞が創設され、彼自身も1966年にレスター・パトリック・トロフィーの初代受賞者となっている。
↩︎ - カナダのオンタリオ州北部に位置する、スペリオル湖に面した地域の中心都市。かつての「フォート・ウィリアム」と「ポート・アーサー」が合併して誕生した。歴史的には、五大湖とセントローレンス海路を結ぶ重要な港湾都市として発展。現在は、医療、教育、観光が経済の中心である。
豊かな自然に恵まれ、ハイキングや釣りなどのアウトドアが盛んなほか、カナダの国民的英雄、「希望のマラソン」で知られるテリー・フォックスゆかりの地としても知られている。フィンランド系文化の影響も色濃く残る都市。
↩︎ - アメリカの著名な実業家で、両親のマイクとマリアン・イリッチが設立または買収した多岐にわたる事業を統括するイリッチ・ホールディングス社(Ilitch Holdings, Inc.)の社長兼CEO。
彼の事業には、リトル・シーザーズ・ピザ、オリンピア・エンターテイメント、不動産開発を手がけるオリンピア・デベロップメント・オブ・ミシガンなどが含まれる。
スポーツ界では、NHLのデトロイト・レッドウィングスの社長、CEOを務め、スタンレーカップにもその名を刻む。また、MLBのデトロイト・タイガースの会長兼CEOでもある。
彼が統括するオリンピア・デベロップメントは、デトロイトのダウンタウン再開発プロジェクト「ディストリクト・デトロイト」において、リトル・シーザーズ・アリーナの建設など、重要な役割を担う企業のひとつ。 ↩︎