殿堂入りを祈る!逆境に耐え続け、歴史に埋もれた名選手に光を!

アイスホッケー名選手

はじめに 

 久しぶりに「NHL史探訪」の記事です^^;。多くのプロスポーツがそうであるように、チーム優勝や個人タイトルに恵まれなかったり、チーム内の人間関係に悩まされたり、あるいはプライベートのスキャンダル等で身を持ち崩してしまった選手は、NHLにもごまんといます。 

 今回紹介するハーブ・ケインは優勝やタイトルをゲットした一方で、チーム内の人間関係のもつれで、NHLでの現役生活を終えてしまった選手なのです。普通、そういう場合、NHLの別なチームへ移籍させられて、さらに活躍する例も多いのですが、ケインは違いました。 

 しかも、現役中、チーム練習での連絡不徹底のため、あわや命の危険にまでさらされたという経歴まであります。ある意味、「悲運の名選手」であるケインをホッケーの殿堂入りさせよう、と動いている方々の証言も交え、彼の経歴を追ってみましょう。 

讃岐猫
讃岐猫

引用元:NHL.com「Herb Cain persevered despite much adversity during 13 seasons in NHL」。

ハーブ・ケインとは?

 伝説のホッケー記者スタン・フィッシュラー1は、NHL.comに毎週スクラップブックを書いています。「ホッケーの達人」として知られるフィシュラーは、毎週水曜日にユーモアと洞察力を読者に披露しています。

 今週のフィシュラーは、1943-44シーズンにNHLの得点記録を樹立しながらも、選手としてのキャリアが軌道に乗る前にほぼ現役生活を終えてしまった、スタンレーカップで2回優勝経験のあるハーブ・ケインに焦点を当てています。

 今からちょうど80年前の今月、ボストン・ブルーインズのハーブ”シュガー”ケインは、NHL史上最も驚異的な最多ポイント王に輝きました。

 1943-1944シーズン、ケインはブルーインズで49試合に出場し、82ポイント(36ゴール、46アシスト)を記録し、NHL記録を樹立しました。

 それとともに、その前のシーズンに記録したNHLキャリアハイ(36ポイント、18ゴール、18アシスト)の2倍以上を記録したことになります。

 ケインが表紙を飾った『1944 Who’s Who Of Hockey』の発行人ジム・ヘンディ2は、「ケインのリーグでの過去10年間を考えると、これは非常に素晴らしいことだった」と語りました。

 「翌シーズン(1943-1944)ハーブがやったことは信じられないことだった。36ポイントから82ポイントへ、46ポイントも上昇したんだから」。

 このリーグ新記録は、デトロイト・レッドウィングスのゴーディ・ハウが86ポイント(43ゴール、43アシスト)を記録した1950-51シーズンまでトップであり続けましたが、ハウの出場試合数は70試合で、ケインより20試合も多かったのです。

偉大な選手なのに、なぜか「殿堂」から嫌われている…

 ハウと同じように、ケインも驚くほどスピードがあり、強力なシュートを放ち、正確なパスを武器にしていました。ブルーインズでのチームメイト、バズ・ボール3は、「ハービーはとても速かったので、ケージの前のルーズパック彼に先を越されたよ」と語っています。

 「ケインは、その長く成功したキャリアの中で、とてつもない選手だった」と歴史家アンドリュー・ポドニクス4は著書『Players–The Ultimate A to Z Guide』の中で書いています。

 オンタリオ州ニューマーケット出身のケインは、NHLの13シーズンで572試合に出場しました。彼は398ポイント(206ゴール、192アシスト)を記録しています。

 「しかし、1918年から1988年までのNHLの最多ポイント王は、ケインを除いてすべて殿堂入りしている」とホッケー歴史家のブルック・ブロードベント5は語りました。

 2022年、ブロードベントは、ケインのトロントの殿堂入りを支援するため、入念なる招致活動を開始した5人組のリーダーです。

 (ケインのキャリアに関する)研究チームは、ケインの記録について、殿堂入りを果たした同時代の選手たちと比べて有利であることを発見しました。しかし、ケインは冷遇されたままです。今日に至るまで、ケインは殿堂入りしていない唯一の最多ポイント王なのです。

讃岐猫
讃岐猫

監督との激しい確執が原因か?

 ケインのキャリアを彩ったゴールとアシストは、論争とともにありました。これには、ブルーインズの監督アート・ロス6との激しい確執も含まれています。公表された報道によると、ロスはブルーインズでの任期の最後にケインに暴言を吐いたとされています。

 アート・ロスの伝記の著者であるエリック・ツヴァイク7は、他の歴史家の書いていたことの確認を取っています。1946年、ニューヨーク・レンジャーズとシカゴ・ブラックホークスが当時34歳のケインとの契約に興味を示していて、ロスが彼をNHLから追放してしまいました。

 「一般に受け入れられている話は、1946-47シーズン前、ケインがプレーすることを拒んだんだ。 

 だから、怒ったロスが彼をボストンのマイナーリーグチームに送り、他のNHLチームでプレーしないようにという指示とともに、彼をそこに埋もれさせてしまったというものだ」とツヴァイクは説明しています。 

 ロスはその指示を実行に移し、ケインは2度とNHLでプレーすることはありませんでした。しかし、ロス監督は、1934-35シーズン、22歳の時にモントリオール・マルーンズ8で44試合に出場し、20ゴールを決めたケインのNHLでの英雄的功績を消せなかったのです。  

 同シーズン、彼は初めてスタンレーカップ優勝チームの一員としてプレーし、その後1940-41シーズン、ブルーインズのカップ優勝にも貢献しました。 

不慮の事故から復活したケイン 

 しかし、もしケインがまだマルーンズの一員だったとき、首吊り死寸前だったという奇怪な出来事から生き延びていなかったら、そのどれもが不可能だったでしょう。 

 1935年のウィニペグでのトレーニングキャンプ中、マルーンズの監督トミー・ゴーマン9は、偶然にもベテラン選手たちの「不正行為10」を発見・激怒し、選手たちにロッカールームへ戻るよう命じました。   

 そして、後に左ウィングのトー・ブレイク11の記憶によると、ゴーマンはビル・ロッシュの『ホッケー・ブック12』に記されているアイデアから、何かを思いついたとされています。   

 「『不正』をやめさせるために、ゴーマンは丈夫なロープを持ってきて、ゴールポストの上からエンドボード(ゴール裏の壁や柵)の重い金網に結びつけました。 

 それはネット後ろの氷のエリアを遮断して、ゴールネット裏を滑ろうとする選手を阻止するためだった」とブレイクは回想しています。 

 残念なことに、この迂回路のことについて、選手たち、特に最初に氷上に出たカインへ、ゴーマンは伝え忘れていました。自分の首にロープが巻きつけられていることに気づかず、ハービーは猛スピードで飛び出したのです。 

 ブレイクによると、「私がホッケーリンクで見た中で、これは最も奇妙な振り落とされ方だった。あごの下にロープを引っ掛けられたとき、ハーブの頭と体は曲がっていた。空中で輪を描くと、彼は人間風車のようになり、最後には後頭部から着地した」。 

 瀕死の事態が起こっていることに誰かが気づいた時、ケインは意識を失い、30分近くそのままの状態でした。 

 「ゴーマンはとても心配していたよ」とブレイクは振り返ります。「ケインが窒息死にならないと確信するまで、彼はあちこち歩き回って独り言をつぶやいていた。ハーブは素晴らしいキャリアへの道を歩んでいたから、彼が死に至らなかったのは、とても良いことだったね」。 

讃岐猫
讃岐猫

復活後の成績 

 1938-39シーズン前、マルーンズはケインをモントリオール・カナディアンズにトレードしました。シーズン終了後、フォワードがより良い契約を求めたとき、カナディアンズは彼をブルーインズにトレードしたのです。そして、彼のキャリアはそこから大きく飛躍しました。 

 著者のチャールズ・L・コールマンは、『The Trail of the Stanley Cup13(スタンレー・カップの軌跡)』の中で、ケインを「1944年に最多得点王に輝いたとき、2度の軽い反則を犯しただけの優秀な選手」と評しています。  

 その年、ケインはスポーツマンシップと紳士的なプレーを称えるレディ・ビング・トロフィーの投票で2位となりました。 

 ロスがレンジャーズやブラックホークスとの契約を阻止した後、ケインはアメリカン・ホッケー・リーグのハーシー(・ベアーズ)で4シーズン活躍し、その後引退しています。 

ケインの生命力は本当に強い! 

 しかし、彼の回復力は試され続けました。 

 1964年、ケインは癌と診断され、最悪の事態を覚悟するよう告げられています。ハーブ・ケイン記念ゴルフトーナメントが彼の仲間たちによって開催されました。 

 驚くべきことに、実験的な化学療法が功を奏し、2年後、ケインは自身のトーナメントで優勝し、医師の予想を超えて17年間、元気でいたのです。 

 ブロードベントと彼のチームはこう結論付けました。「殿堂入り選考委員会以外のあらゆる障害に対し、ハーブが打ち勝てると思っている。 

 今度は、ベテランとして殿堂入りした(ケインと)同時代の11人の選手達の中に、ケインが加われれば、どんなに素晴らしいことだろう」。

ケインが活躍していた当時、こんな感じでした。

 

まとめ 

 ケインが殿堂入りしないのは、アート・ロスとの確執が影響しているのでしょうか。相手は、今も続くトロフィーの名前になっているくらいですからね。でも、それも遠い昔の話、選考委員会の方々には、純粋にケインの実績から判断してもらいたいと思います。 

 今回、チラチラと海外の古書サイトを見たのですが、「アイスホッケー関連の歴史書」が本当に多いです。しかも、ハードカバー製の百科事典のようなタイプもありました。当然、日本では紹介されていないものばかりで、もっと英語が読めりゃ買うのにな…と反省しきりです。 

 今シーズンから情報サイトを増やし、より一層多角的にNHLを見ていこうと思っているのですが、今回のような「アイスホッケー今昔物語」の記事は、公式サイト以外だとあまり掲載されていないようです。もっと読みたい!と思う今日このごろです。 

讃岐猫
讃岐猫

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!

【註釈】

  1. ニューヨーク、ブルックリン出身の91歳。ホッケーとニューヨーク市地下鉄に関する歴史家。

     マディソン・スクエア・ガーデン運営の衛生ネット・サービスで、ニューヨーク・アイランダーズ、ニュージャージー・デビルズ、ニューヨーク・レンジャーズに関する情報発信で知られる。また、ホッケー分析論を提供し、Webサイトにコラムを執筆し続けている。
    ↩︎
  2. 英領西インド諸島バルバドス出身、1961年1月14日死去、享年56歳。アイスホッケー関連のライターであり、統計学者。ホッケー殿堂の選考メンバーである彼は、プロ選手やチームのパフォーマンスに関する統計的手法を開発したことで知られる。
    ↩︎
  3. カナダ、サスカチュワン州フィルモア出身。1990年1月死去、享年78歳。現役時代のポジションは左ウィング。NHLでは11シーズンにわたりプレー。最高成績は引退の前年となるブルーインズでの1942-43シーズン、43試合に出場し、25ゴール、52ポイント。
    ↩︎
  4. アイスホッケー関連のライター。これまでホッケーに関する本を45冊以上執筆し、また、国際アイスホッケー連盟、ホッケーの殿堂、カナダのホッケー連盟等における国際ホッケー研究にも幅広く貢献している。
    ↩︎
  5. 残念ながら、ブロードベントの詳細は不明だが、3年前に彼はケインについての記事をアップしているので、リンクしておく→
    ↩︎
  6. カナダ、オンタリオ州出身。1964年8月死去、享年78歳。現役時のポジションはディフェンス。前身のNHAでのプレーは8シーズンあるが、NHLは3試合にしか出場していない。ボストンの初代監督であり、後にGM職に就く。

     彼の名を冠した賞は、レギュラーシーズン通算で最高のポイント(ゴール数+アシスト数)を獲得した選手に贈られるもので、このトロフィーはロスが寄贈したものである。
    ↩︎
  7. 1985年からスポーツとスポーツ史について専門的に執筆しているライター。ホッケーや歴史に関する本を大人向け、子供向けに40冊以上出版。彼の公式HPはこちら→
    ↩︎
  8. 1924年に創設。カナダ、ケベック州モントリオールをホームとし、NHLで1925-26シーズン、1934-35シーズンにステンレーカップを獲得しているが、その3シーズン後に財政状況悪化のため、チームは解散。チームカラーは栗色。
    ↩︎
  9. カナダ、オンタリオ州オタワ出身。1961年5月死去、享年74歳。NHLの創設者の1人。ホッケーのプレー経験はないが、選手の才能を見抜く目に優れていたとされる。GMとして、4チームでスタンレーカップを7回獲得。オリンピックのラクロスカナダ代表として金メダルを獲得。
    ↩︎
  10. 具体的に何を指しているのか不明であるが、おそらく選手達がゴール裏に回り込んで、シュートを決めるプレーばかりをやっていて、「正しいシュート練習」にならなかったため、監督が激怒したものと思われる。
    ↩︎
  11. カナダ、オンタリオ州ウォールデン出身。1995年5月死去、享年82歳。モントリオール・カナディアンズで、通称「パンチライン」と言われた強力攻撃陣を形成し、選手時代に2回、監督時代に8回もスタンレーカップを掲げている。
    ↩︎
  12. ニュージー・ラロンド、アート・ロス、ミッキー・イオン、エディー・ショア等、ホッケーを最もよく知る男たちが語る、史上最高のホッケー・ストーリーとされている一冊。1953年に出版。

     華やかな表舞台の話だけでなく、アメリカ人オーナーの横暴ぶりやアメリカ人ファンによる八百長斡旋等についても触れられている。
    ↩︎
  13. 有名なホッケーの歴史家チャールズ・L・コールマンによる、1893〜1967年までのホッケーの発展ぶりとスタンレーカップを詳述した3巻本。細心の注意を払って研究されたホッケーの歴史が、数千ページにわたり書かれてある。
     
     第1巻はスタンレーカップの上にあるシルバーボウルの起源について、第2巻は1927〜1946年までのホッケーの発展について、第3巻は、1947〜1967年まで、6チームで競われていたスタンレーカップについて書かれてある。 ↩︎
タイトルとURLをコピーしました