はじめに
今回の主役である長野オリンピック、もう4半世紀前の話なんですね。多くのスター・プレーヤーが来日し、激しく熱いプレーを見せてくれるたびに、「強化のためには、日本にも本格的なプロのアイスホッケーリーグ設立を!」と何度も思いました。
しかし、大きなうねりは起きることなく、今に至っています。大学リーグなどは、それなりに盛り上がっているのですけどね。
長野オリンピック、女子アイスホッケーで金メダルを獲得したのは、アメリカ代表チームでした。開幕前、お世辞にもあまり注目されていなかった女子チームが金メダル獲得後、状況が好転し…。
アマチュアリズムの後退等から、「金メダルの価値が薄れた」なんて言われている昨今、「いや、そんな事はない!」と思わせてくれる女子代表チームの足跡を追ってみましょう。
去年の北京冬季五輪で、アイスホッケー日本女子代表が
史上初の決勝トーナメント進出を決めたのは、記憶に新しいにゃ。
でも、国内の盛り上がりが…。
引用元:NHL.com「U.S. gold medal in 1998 Nagano Olympics put women’s hockey ‘on the map’」。
1998年、長野で運命が動き出した!
カミー・グラナートが、たくさんの人の顔、ホッケーの道具の山、女の子でいっぱいの氷の上を見渡した時、ピースがぴったりとはまったような感覚になりました。
※カミー・グラナート=アメリカの元アイスホッケー選手、2010年11月、ホッケーの殿堂入りを果たした最初の女性の1人。1998年、長野冬季オリンピックで金メダルを獲得した米国女子ホッケー・チームのキャプテン。
同年2月8日、米国女子ホッケー・チームとして史上初のオリンピック・ゴールを決め、代表チーム出場205試合で、186ゴール、157アシスト、343ポイントを記録。また代表チームの歴代得点王。
1998年の長野オリンピックの日程が進むにつれて、ホッケー女子チームのメールの受信箱(当時はまだ初期のテクノロジー)が、パートナーや両親からのメモでまばらな状態だったのが、メッセージでいっぱいになった時から、彼女はそれを感じ始めていたのです。
しかし、チームが金メダルを獲得した後、生まれ故郷のシカゴで行われた最初のホッケー・キャンプで、初めて彼女の前に新しい未来が開かれたのです。全国から115人の女の子達が集まり、一緒にホッケーをプレーし、学んだのです。
「見ていてワイルドだったわ」とグラナートは語りました。「あの日の私は『ロビー全体、氷上が女性でいっぱいだなんて信じられない』という感じでした。私はずっと男の子とホッケーをプレーしていました。
18歳でプロビデンス(大学)に行くまで、エキシビション・ゲームを除いて、他の女の子を見たことはありませんでした。
※プロビデンス・カレッジ=ロードアイランド州(アメリカ合衆国東北部、ニューイングランド地方にある州)プロビデンスにある私立カトリック大学、1917年設立。西洋文明発展の歴史研究で有名。スポーツは陸上競技と男子バスケが盛ん。
「その時、閃いたのです。私たちはインパクトを与えたのだ。人々は見ていて、私達のプレーに感化されたんだわ」。
オリンピックの女子ホッケーで初の金メダルを獲得したことにより、アメリカ・チームがこのスポーツに対する女性の関心に忘れがたい影響を与えたことは、間違いありませんでした。
当時はあまり明確ではありませんでしたが、25年後の現在では、その影響が女子ホッケー全体だけでなく、ホッケー界全体にどのような影響を及ぼすかということです。
2018年、平昌への継承
グラナートの後を継いで、2018年の平昌オリンピックで米国代表の主将を務めたメーガン・ダガンが語ってくれました、
「あれだけの成功を収め、我が国の女子ホッケーの風景を変えたあのチームの多くの女性達が、今、さらに限界を超え、ただひたすら関わり続け、ホッケーの風景を変えているのは当然だと思います」と。
※メーガン・ダガン=現役時のポジションはフォワード。現在、ニュージャージー・デビルズの選手開発ディレクター。2010年と2014年冬季オリンピックで米国代表としてプレーし、2 つの銀メダルを獲得。
2018年冬季オリンピックでは米国チームのキャプテンを務め、金メダルを獲得。また、8つの女子世界選手権でもプレーし、7つの金メダルと1つの銀メダルを獲得。
ウィスコンシン大学でプレーした2010–11シーズン、NCAAで女子アイスホッケーのトップ選手に毎年贈られるパティ・カズマイヤー賞を受賞。
2011年のCWHL(カナダ・ウィメンズ・ホッケー・リーグ)ドラフト全体8位でボストン・ブレイズから指名され、プロとしてプレー。2020年10月13日、33歳でプロのホッケーからの引退を発表。
グラナートはいつものように先頭に立ち、2010年にアンジェラ・ジェームスと共にホッケーの殿堂入りを果たした、最初の女性2人のうちの1人となりました。
※アンジェラ・ジェームス=カナダ・オンタリオ州トロント出身。「女子ホッケーのウェイン・グレツキー」と言われ、1980年代から1990年代にかけて女子ホッケーの先駆者とされる。
カナダ女子代表チームを4つの世界選手権(1990年、1992年、1994年、1997年)で活躍。史上2番目の黒人選手として殿堂入り。
彼女は現在、バンクーバー・カナックスのアシスタント・ゼネラルマネージャーであり、これまで男性ばかりがやっていた仕事に就く女性が増えている中の一人です。
金メダルの絶大なる影響
しかし、1998年2月17日に獲得された金メダルは、非常に多くの面で、米国のホッケー、特に女子ホッケーの風景に爆弾を落としたようなものでした。
それ以来、(金メダル前と)同じようなことはありません。
「それは女子ホッケーをどのように変えましたか?」そのチームのフォワードで、現在はESPN、MSG、NBCでキャスターを務めるAJ ムレツコは、「とても重要なものになったんじゃないかしら」と述べました。
※AJ ムレツコ=ハーバード大学でカレッジ・ホッケーをプレーし、1999年にクリムゾン(チーム名)に全国タイトルをもたらす。現在、ESPNおよびMSG NetworksでNHLのホッケー・コメンテーター。かつて、NBCのNHLプレーオフ・ゲームの解説を担当した最初の女性。
元チームメイトのカミー・グラナートと共にポッドキャスト「On the Bus With Cammi & AJ」の司会も担当。
それはすべてを変えたのです、勝った女性達のために、その彼女達から影響を受けて、氷上に戻ってきた少女達のために、次世代を担う女性達のために。金メダルチームは、ウィーティーズの箱に行き着きました。
※ウィーティーズ=アメリカのゼネラル・ミルズ社が製造する朝食用シリアルのブランド。パッケージに著名なアスリートをフィーチャーすることでよく知られており、米国の文化的アイコンである。
ここでは、アイスホッケー米国女子代表チームが、パッケージに登場したことを意味する。
「レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」に出演することになり、人々は彼女達と話をしたいと叫んだのです。
※レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン=1993年8月30日から2015年5月20日まで、アメリカCBSで放送されていた深夜トーク・バラエティ番組。
レターマンはコメディアンで毒舌家。ゲスト出演した有名人をこき下ろし、喧嘩になることも。マドンナとの激論は有名。なお、この番組観覧用のチケット入手は非常に困難とされていた。
女子ホッケー人口が激増!
突然、女の子と女性のための道が開かれました。1998年、USAホッケーによると、約28,000人の女性と少女がホッケーをしていました。今日では88,000以上の人口があります。
「女性が男性と同じ氷の上でプレーできるようになったのは、大きなことでした」とムレツコは述べました。「しかも、その時、NHLが初めてオリンピックに参加した時で、スーパースターが集まっていたのです。そして、私たちは同じ氷の上で、同じジャージを着てプレーしていました。
それが多くの選手、現在赤、白、青を着ている多くの選手に夢をもたらしたと思います」。
後編に続くにゃ!
ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!