NHLの歴史を辿る:忘れられたチームたちの知られざる真実

アイスホッケー名選手

はじめに

 NHLの歴史を振り返ると、たくさんの伝説的なチームや選手が思い浮かびますよね。でも、中には忘れられてしまった「幻のチーム」たちも存在するんです。彼らの多くは短命だったり、拠点を移したりして、今ではほとんど知られていません。

 今回は、そんなホッケーの歴史に名を刻みながらも、あまり語られることのないチームたちを覗いてみましょう👀✨

参照記事:The Hockey News.com「10 Defunct NHL And WHA Teams That Deserve A Second Chance

忘れられたNHLの歴史:幻のチームたち🏒

 今回、特に注目したいのは、カンザスシティ・スカウツ、カリフォルニア・ゴールデンシールズ、インディアナポリス・レーサーズ、シンシナティ・スティンガーズ、そしてハートフォード・ホエーラーズの5チーム。

 彼らの物語には、意外な発見や、今のNHLにつながるヒントが隠されているかもしれません!

カンザスシティ・スカウツ:たった2年の幻の物語

 まずは、NHLのカンザスシティ・スカウツ1から。このチームは、多くの人にとってしばしば忘れ去られていますが、実は今私たちが知っているニュージャージー・デビルズの前身なんです!😈

 1974-1975シーズンと1975-1976シーズンのたった2年間だけNHLに在籍した後、チームはカンザスシティを離れてコロラド・ロッキーズ2となり、最終的にニュージャージーへ移りました。

 カンザスシティのプロスポーツ市場は、NFLのチーフスやMLBのロイヤルズ、そしてスカウツの在籍中、NBAのカンザスシティ・キングスがサクラメントに移転する前の10年以上にわたる活動3で成功を収めてきました。

 しかし、スカウツの短い活動期間と目立った成績が残せなかったことから、彼らの存在は多くの人に忘れられてしまいました。でも、実はこの街、人口も増えていて、プロスポーツの市場として存続可能であるという確かな証拠があり、十分に魅力的なんです。

 NHLの米国における存在感をさらに広げるため、もしホッケーチームが復活したら、また違った歴史を歩むことになるかもしれませんね😊

チーム・エンブレムは重厚な感じなんですけど、ジャージのデザイン、何とかならんかったか…。それといつも思うこと、70年代、メットかぶってない!

カリフォルニア・ゴールデンシールズ:オークランドからサンフランシスコへ?

 次に紹介するのは、カリフォルニア・ゴールデンシールズ4。このチームは、NHLが拡大した初期の段階で誕生し、1967-1968シーズンから975-1976シーズンまでの9シーズンにわたって活動しました。

 本拠地はオークランドでしたが、もし復活するなら、カリフォルニア・ゴールデンシールズという名称を維持しつつも、もっと大きな市場を持つサンフランシスコが理想的かもしれません。

 オークランドを本拠地とするスポーツチームに影響を与えてきた問題5、そしてウォリアーズ(NBA)、ジャイアンツ(MLB)、49ers(NFL)がサンフランシスコに移転してからの成功と存続可能性を検証すると、米国で最も大きく、最も著名な市場の一つであるサンフランシスコの中心部にNHLチームを追加することは理にかなっています。

 もしNHLチームが加われば、州内にいるサンノゼ・シャークスとすぐにティール色(青と緑を混ぜた深みのある青緑色。チームカラーが近い)の熱いライバル関係が生まれて、この地域全体で、州内および地理的なライバル関係をさらに発展させてくれそうですよね🔥

 サンフランシスコにすでに建設されているアリーナの実用性と現実性を考えると、この都市と新しいシールズは、再挑戦するのに実行可能な選択肢となります。ゴールデンシールズという名前はそのままに、新たな場所で再スタートを切る姿を見てみたいです!

インディアナポリス・レーサーズ:あの偉大な選手もここからスタート!🚀

 さて、次はWHA(世界ホッケー協会)に短期間だけ存在したインディアナポリス・レーサーズ6に注目しましょう。

 このチーム自体は、1974-1975シーズンから1978-1979シーズンまでの活動でしたが、なんと、スポーツ界で最も偉大で最も重要なスターの一人、ホッケー界のレジェンド中のレジェンド、ウェイン・グレツキーが最初にプロとしてプレーしたチーム7なんです!😲✨

 グレツキーは、レーサーズでたった8試合しか出場しませんでしたが、そこで6ポイントを獲得する活躍を見せました。その後、レーサーズが最初の歴史を終えようとする頃、彼はエドモントン・オイラーズへと移籍し、伝説を築いていくことになります。

 レーサーズが彼のキャリアの出発点だったというのは、インディアナのホッケーファンにとって、そしてインディアナのホッケー復活の可能性にとって、非常に大きな名声ですよね!

 インディアナ州やインディアナポリス市は、スポーツの重要な拠点です。NBAのペイサーズやNFLのコルツ、インディアナ大学フーシャーズ(インディアナ大学男子スポーツ部の愛称)、そしてインディ5008のようなモータースポーツに至るまで、スポーツへの情熱が半端ないんです。🏒🔥

 最高レベルでのホッケーの復活は、次の論理的なステップであるように思えます。ECHL、CHL、USHL、そしてIHLを含む様々なマイナーリーグのホッケーチームもたくさん存在してきた歴史があるので、もし最高レベルのホッケーが復活したら、きっと大歓迎されるはず!

シンシナティ・スティンガーズ:中西部のホッケー熱をさらに高める?

 WHAに1975-1976シーズンから1978-1979シーズンまで在籍したシンシナティ・スティンガーズ9も、忘れてはいけないチームです。シンシナティには、それ以来、様々なリーグで何らかのマイナーリーグホッケーチームが存在しています。

 また、NFLのベンガルズやMLBのレッズ、そして大学スポーツのシンシナティ大学ベアキャッツなどが成功と熱狂的なファンからの支持を誇っていて、長年にわたってプロスポーツを支えてきた街📣

 特に中西部地方10は、草の根レベルから大学、さらにはプロレベルに至るまで、あらゆるレベルでホッケーに信じられないほど情熱を傾けています。

 シンシナティにNHLチームが加われば、この地域とNHLの結びつきをより強固なものにし、ホッケー熱はさらにヒートアップすること間違いなし!🔥🔥

 その市場規模は、プロホッケー界での再挑戦を検討する価値が十分にあり、また近くには、熱狂的なファンを持つコロンバス・ブルージャケッツというチームもいるので、州をまたいだライバル関係11も生まれて、試合がますます面白くなりそうですよね!

何となくブルーインズのジャージにも似てるんですけど、今でも十分通用するんじゃないでしょうか。

讃岐猫
讃岐猫

ハートフォード・ホエーラーズ:愛され続ける伝説のチーム🐳🎶

 最後に紹介するのは、ハートフォード・ホエーラーズ。このチームは、NHLに在籍した1979-1980シーズンから1996-1997シーズンまでの間に、多くのファンに愛される存在となりました。

ホエーラーズについては、こちらをどうぞ。

 WHA時代にはニューイングランド・ホエーラーズという名前で親しまれ、1972-1973シーズンから1978-1979シーズンまで活動し、その存在は3つの異なる年代(70年代、80年代、90年代)にわたり2つのプロリーグで、ホッケーの歴史に深く刻まれています。

 ハートフォードはまた、数十年にわたりAHLチームを受け入れており、AHLの東海岸における存在として、ホエーラーズはその創設以来主要な存在でした。

 彼らが今でも愛されている証拠に、ハリケーンズが時折、ホエーラーズの懐かしいジャージを着て、「スローバック・ナイト」としてプレーすることがあります。その象徴的なロゴや、ゴールのたびに流れる名曲「ブラス・ボナンザ」は、NHLの歴史に永遠に残る伝説となりました。🎶✨

 ニューイングランド地方は常にホッケーに熱狂しており、ボストン大学、ボストンカレッジ、ブルーインズなど、ホッケーが盛んな地域。ホエーラーズは、この地域に根付いた情熱と強いブランド力を持っています。

 その歴史と地域に根差した情熱を考えると、このNHLで再び機会を得るにふさわしく、もし「NHLホエーラーズ2.0」として復活するチャンスがあれば、きっと多くのファンが熱烈に歓迎し、新しい伝説が生まれることでしょう!

まとめ

 短い期間で消えてしまったチームたちですが、彼らがホッケーの歴史に残した足跡は決して小さくありません。

 カンザスシティ・スカウツやカリフォルニア・ゴールデンシールズは、プロスポーツ市場の可能性を示し、インディアナポリス・レーサーズはレジェンドの第一歩を支えました。そして、ハートフォード・ホエーラーズは、今もなお多くのファンの心に生きる伝説的な存在です。

 チームはなくなっても、彼らの情熱や物語は、現在のホッケー文化に確かに受け継がれています。こうした歴史の裏側を知ることで、私たちが愛するスポーツの奥深さを、より一層感じられるのではないでしょうか。

讃岐猫
讃岐猫

【註釈】

  1. 1974年から1976年までNHLに所属。ミズーリ州カンザスシティに本拠を置き、チーム設立の正式フランチャイズ認定は1972年6月であり、機構は拡張期の一環としてセントルイス・ブルースと同じウェスタン・カンファレンスのスミス記念地区へ加入。

     チーム名「Scouts」は、地元のランドマーク「The Scout」像に由来し、ロゴにもその像が取り入れられている。ホームアリーナとして建設されたケンパー・アリーナは建設遅延のため、最初の公式戦数試合をロードで戦うことを余儀なくされた。

     競技成績は芳しくなく、初年度は15勝54敗11分け、ポイント41でプレーオフには届かず、2年目は12勝56敗12分けに終わり、ポイント36というスカウツ/ロッキーズ/デビルズの歴史上最悪記録をこの時点で打ち立てた。

     就任コーチはベップ・ギドリンをはじめ、暫定のシド・アベル、エディ・ブッシュの三名が在任し、キャプテンは初めサイモン・ノーレ、その後ギー・シャロンに交代した。

     オフアイスでは、選手コストの高騰、資本力の不足、経済不況と観客動員数の低迷など複合的な問題を抱えていたである。アリーナ収容人数の約半分以下しか入場者がなかった試合も多く、財政的に継続可能な運営とは言えなかった。

     その結果、1976年にジャック・ヴィッカーズ率いるグループへ売却され、デンバーへ移転してコロラド・ロッキーズへと転身した。さらに1982年にはニュージャージーへ再移転し、現在のニュージャージー・デビルズとなって現在に至る系譜を持つ。

     その遺産として、カンザスシティにおけるNHLチームの短命であったが記憶には残る存在であり、後年デビルズ本拠地プリンシパルセンターにはスカウツやロッキーズの旧アリーナを描いた壁画が設置されている一方で、公式な媒体やチームの歴史案内ではスカウツ時代のキャプテンやコーチ、運営者についてほとんど触れられていない。
    ↩︎
  2. 1976年から1982年までNHLに存在しチーム。スカウツがミズーリ州からコロラド州デンバーへ移転して名称をロッキーズとし、デンバー市のマクニコルズ・スポーツ・アリーナを本拠地とした。チームは6年間でひと度だけプレーオフ進出を果たしたが、いずれも低調な成績と財政的な苦境が常に付きまとった。

     1977-78シーズンにはスミス・ディビジョンで2位に入ったことでプレーオフに参加したものの、勝利数や得失点差などでは他地区チームに比して明らかに劣っており、このシーズン以外はすべてプレーオフを逃している。

     チームカラーにはコロラド州旗の色である青・赤・金が採用されていた。

     運営上の課題としては、本拠地アリーナの収益構造が悪く、入場料以外の駐車場や広告、売店収入などが十分に得られなかったこと、所有者のビジネスが経営的に安定しなかったことなどが挙げられる。

     こうした経済的圧力の結果、所有者交代や売却が繰り返され、1982年にはジョン・マクマレンによって買収された後、チームはニュージャージー州イーストラザフォードへ移転し、ニュージャージー・デビルズとして再スタートを切った。

     コロラド・ロッキーズの影響は、チームそのものは短命に終わったが、ロゴや色使い、一部のファン文化において後にデンバーを本拠とするコロラド・アバランチにも受け継がれている。例えば、アバランチのレトロユニフォーム等でロッキーズ時代のカラースキームが用いられたり、スローガンや応援文化がオマージュされる事例が見られる。
    ↩︎
  3. カンザスシティ・キングスは、1972年にカンザスシティ(当初はカンザスシティ-オマハとして複数都市で一部試合を開催)へ移転して以来、1985年にサクラメントへ移るまで約13シーズンを同地で戦ったNBAチーム。

     移転直後にコットン・フィッツシモンズを指揮官に迎えてチーム力が向上し、1978–79シーズンには地区優勝を果たし、1979–80シーズンも好成績を収めるなど黄金期を形成したことがある。

     とりわけ1978–79シーズンと1979–80シーズンの時期は、フィッツシモンズ体制下でフィル・フォードやオーティス・バードソング、スコット・ウェドマン、サム・レイシーらが主軸となり好成績を残した年であり、1979年には地区トップの成績でファンの期待を高めた。

     ホーム開催はケンパー・アリーナを中心に行われ、当時は平均入場者数が上昇するなど一時的な盛り上がりを見せた。

     しかしながら長期的には観客動員の定着に苦しみ、地元のプロスポーツ市場ではロイヤルズ(MLB)やチーフス(NFL)、大学バスケットボールの人気に押される面があった。所有権の入れ替わりや財政面での不安定さも続き、最終的に1983年にサクラメントの投資家グループに売却され、1985年に移転が承認されてチームはサクラメント・キングスへと生まれ変わった。

     総じて言えば、カンザスシティ在籍時代のキングスは局所的な成功と短期的な盛り上がりを示したものの、持続的な市場定着や経営基盤の確立には至らず、その結果として移転に至ったという経緯である。
    ↩︎
  4. 1967年のNHL拡張に伴いスタートしたプロアイスホッケークラブであり、カリフォルニア州オークランドを本拠に活動した。創設時には「California Seals」と名乗り、その後Oakland Seals、Bay Area Sealsを経て1970年から「California Golden Seals」として知られるようになった。

     創設当初から成績は振るわず、9シーズンのうちわずか2度しかプレーオフに進めなかったほか、NHL全体でも拡張チームの中で最も成功を収めないチームの一つとされていた。

     オフアイスにおける困難も大きかった。入場者数の低迷が常態化し、所在地のオークランドおよびベイエリア全体の市場がホッケーに対する関心や支持を十分には獲得できなかった。所有者変更や資金繰りの悪化が続き、マーケティングの試みやユニフォームの色変更などのブランド刷新が行われたものの、根本的な成績不振と経済的重荷は解消されなかった。

     1976年、チームはクリーブランドへ移転しCleveland Baronsへと名前を変えたが、その後1978年にはミネソタ・ノーススターズとの合併を経験して活動を終える運命をたどった。

     遺産としては、白いスケート靴や派手なチームカラー、独特のマーケティング戦略などが記憶され、後年にはサンノゼ・シャークスのレトロユニフォーム等でGolden Seals期の色合いやデザイン要素がオマージュされるなど、ファン文化の中で一定の存在感を保っている。
    ↩︎
  5. オークランドのスポーツチームが苦境に陥る背景には、主にスタジアム施設の老朽化とそれに伴う収益性の低下、そして政治や地元自治体との交渉の不調がある。

     たとえばオークランド・コロシアムは設備の維持管理が不十分で、上下デッキの荒廃や衛生問題、観客席の不便さが長年指摘されてきたのである。観客動員数もこうした施設状況や試合運営の質の低下によって減少し、売上や広告収入も期待を下回ることが多かったのである。

     さらに、所有者と市や州政府の間で進められた新スタジアム建設をめぐる交渉は長期化し、政治的意思決定の遅れや住民・議会の意見の分裂が計画の実現を妨げてきたのである。ウォーターフロント開発計画(Howard Terminal)も提案されたが、用地の権利関係や鉄道・港湾団体との調整、財政支援の合意形成で紆余曲折を経て、結局実現には至らなかったのである。

     また、経営面でもスタジアム収益以外の商業モデルを十分に確立できなかったことが問題であった。オークランド・ウォリアーズはオラクル・アリーナの老朽化や商業機会の制限を理由にサンフランシスコへ移転し、オークランド・アスレチックスもコロシアムの悪化とファン離れ、財政的圧迫からラスベガス移転を決断したのである。

     結果として、オークランドはNBA、MLB、NFLのチームを相次いで失い、全米でも珍しい「プロスポーツ流出都市」となった。これは単なるチーム移転にとどまらず、地域経済への打撃やファンとの関係性の喪失、ひいてはオークランドにおけるスポーツ文化とアイデンティティの揺らぎを招いているのである。
    ↩︎
  6. 1974年から1978年まで存在したチームで、ワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA)に所属。ホームアリーナはマーケット・スクエア・アリーナで、チームカラーは赤、白、青。チームは4シーズンを戦い、1978–79シーズンの途中で活動を停止。

     レーサーズは、ウェイン・グレツキーとマーク・メッシーという二人のホッケー界のレジェンドを輩出したことで特に知られている。グレツキーは1978–79シーズンにレーサーズでプロキャリアをスタートさせ、その後エドモントン・オイラーズに移籍。

     メッシーも同シーズンに5試合だけプレーし、その後シンシナティ・スタンピードを経てオイラーズに加入した。

     チームは1975–76シーズンにイースタン・ディビジョンで優勝し、1976–77シーズンにはプレーオフ準決勝まで進出するなど、一定の成功を収めた。しかし、1977–78シーズンには成績が低迷し、1978–79シーズンの途中で経営難により活動を停止。

     レーサーズの活動停止後、オーナーのネルソン・スカルバニアは、1979年にアトランタ・フレームスを買収し、カルガリー・フレームスとして再編成された。
    ↩︎
  7. ウェイン・グレツキーがインディアナポリス・レーサーズでプロキャリアをスタートさせたのは、1978年のことである。彼は17歳という若さで、当時のWHA(ワールド・ホッケー・アソシエーション)の規定を超える契約を結び、注目を集めた。

     しかし、レーサーズの経営難により、シーズン途中でエドモントン・オイラーズに移籍することとなった。

     1978年12月、レーサーズのオーナーであるネルソン・スカルバニアは、エドモントン・オイラーズのオーナー、ピーター・ポックリントンに対し、グレツキーとゴールテンダーのエディ・ミオ、フォワードのピーター・ドリスコールの3選手の契約を合計85万ドルで売却した。

     この取引により、グレツキーはエドモントン・オイラーズに加わり、1980年代のNHLにおける黄金時代を築くこととなった。

     グレツキーの移籍は、インディアナポリス・レーサーズの歴史の中でも重要な転機であり、彼のキャリアの始まりとしても記憶されている。この出来事は、インディアナポリスにおけるホッケーの可能性を示す象徴的なエピソードとなっている。
    ↩︎
  8. インディアナポリス500(通称インディ500)は、アメリカ・インディアナ州スピードウェイに位置するインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(通称「ブリックヤード」)で毎年開催される、世界的に有名なオープンホイールカーによる500マイル(約804.7km)耐久レースである。

     1911年に初開催され、以降、メモリアルデーウィークエンド(5月最終週末)に行われる伝統的なイベントとなっており、インディカー・シリーズの一環として開催されている。

     レースは200周の周回で構成され、スターティンググリッドは33台の車両が3列に並ぶ形式で、レースのスタート時には「Back Home Again in Indiana」の合唱が行われるなど、独自の儀式や伝統が数多く存在する。また、優勝者には「ボルグワーナー・トロフィー」と呼ばれるアール・デコ様式の銀製トロフィーが贈られる。

     これまでに、A.J. フォイト、アル・アンザー・シニア、リック・マーズ、エリオ・カストロネヴェスの4人がそれぞれ4回の優勝を果たしており、チーム・ペンスキーは20回の優勝を記録している。2025年のレースでは、アレックス・パロウが優勝し、インディ500とインディカー・シリーズの両方でチャンピオンに輝いた初のドライバーとなった。

     インディ500は、モナコグランプリやル・マン24時間耐久レースと並ぶ「モータースポーツの三大レース」の一つとして位置付けられており、世界中のモータースポーツファンから注目される一大イベントである。
    ↩︎
  9. 1975年から1979年までワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA)に所属していたチームであり、シンシナティで唯一のメジャーリーグ・ホッケーチームであった。

     1974年にWHAからフランチャイズが授与され、1975–76シーズンからリーグに参入。ホームアリーナはリバーフロント・コリシアム(後のU.S.バンク・アリーナ)であり、チームカラーは黒と金。チーム名の「スティンガーズ」は、地元の蜂をイメージしたもので、シンシナティのアイスホッケー文化を象徴していた。

     スティンガーズは、WHAの5つの拡張チームの中で唯一、リーグ終了まで存続したが、1979年のNHLとの合併には含まれなかった。カナダの3チームは存続が決まった一方で、スティンガーズは観客動員数の低さから選ばれなかったとされる。その後、Birmingham BullsとともにWHAの解散に伴い解散。

     スティンガーズは、後のNHLスター選手であるマイク・ガートナー、マイク・リウト、マーク・メッシーのプロデビューの場でもあり、特にメッシーはロビー・フォトレックとのラインで活躍し、チームの顔となった。

     また、1976–77シーズンには、リッチ・ルデュークが107ポイントを記録し、チームの得点王となっている。

     WHA解散後、スティンガーズは中央ホッケーリーグ(CHL)に参加し、1979–80シーズンを戦ったが、33試合目で解散。その後、シンシナティは2000年までメジャーリーグ・ホッケーチームを持たなかった。 ↩︎
  10. 特に、ミネソタ州、ウィスコンシン州、ミシガン州、イリノイ州、インディアナ州、アイオワ州、ノースダコタ州、サウスダコタ州などの州では、ホッケーが地域文化の一部として深く根付いている。

     草の根レベルでは、屋外の氷上でのプレーが盛んであり、特に冬季には多くのコミュニティでピックアップゲームが行われている。例えば、デトロイトのベル・アイルでは、地元のグループ「Detroit Ice Boiz」が伝統的なポンドホッケー(草野球、草サッカー等と同じ意味)を楽しんでおり、地域のホッケー文化を象徴している。

     大学レベルでは、アメリカ大学ホッケー協会(ACHA)などの組織が、学生主導のクラブチームを支援しており、特にミッドウェストカレッジホッケー(MCH)などのリーグが活発に運営されている。これらのリーグは、学生たちに競技の場を提供するとともに、地域のホッケー文化の発展に寄与している。

     プロレベルでは、ミネソタ・ワイルドやシカゴ・ブラックホークス(共にNHL)などのチームが地域のホッケー人気を牽引しており、これらのチームの成功は、地域住民のホッケーへの関心をさらに高めている。
    ↩︎
  11. シンシナティとコロンバスは、いずれもアメリカ合衆国オハイオ州に位置する都市である。シンシナティは州の南端にあり、ケンタッキー州との州境に近い位置にある。これに対してコロンバスはオハイオ州の中央部に位置しており、州都としても機能している。

     両都市の距離はおよそ250km(約155マイル)であり、車で移動すると片道約2時間半から3時間程度である。この距離感は、スポーツチーム間の州内ライバル関係を築くには十分近く、ファン同士の交流や競争を生む環境として適している。
    ↩︎
タイトルとURLをコピーしました