T.J.オーシー引退後の再会!父と歩んだ優勝と古巣への深い愛

アイスホッケー名選手

はじめに

 ホッケー界のスター、T.J.オーシー選手が現役引退後、再び「聖地」セントルイスへと舞い戻りました✨。

 本記事では、解説者デビューを飾った1月13日のハリケーンズ戦を舞台に、彼が語った情熱的なメッセージの数々をご紹介します。古巣への愛着や解説者としての新たな挑戦、そして亡き父「コーチ」ことティムと歩んだ優勝への物語やファンとの絆まで、彼のキャリアを象徴する重要なエピソードが凝縮されています。

 かつては悔しさを抱えた場所で、彼が「すべてが良い形でつながった」と確信した理由とは?心揺さぶる軌跡をぜひご覧ください😊。

参照記事:The Athletic「T.J. Oshie Q&A: On life after the NHL, the 2019 Blues, Jason Robertson’s Olympic snub and more

久しぶりのセントルイスと新しい挑戦🎤

 今回は、ホッケーファンなら誰もが知るスター、T.J.オーシーの心温まるお話をお届けします。

 今週の火曜日、セントルイスの街に懐かしい顔が戻ってきました。そう、T.J.オーシーです。彼が最後にこの街を訪れたのは2024年1月20日、当時はワシントン・キャピタルズの選手として試合に出場するためでした。でも、今回の彼は少し違います。

 オーシーといえば、2005年のドラフト1巡目でセントルイス・ブルースに指名され、そこから7シーズンにわたってチームの顔として活躍したレジェンドですよね。2015年にトロイ・ブラウワーとのトレードでワシントンへ移り、2017-18シーズンには念願のスタンレーカップ制覇も果たしました。

 その後もキャピタルズで6シーズン戦い抜きましたが、残念ながら2024-25シーズンは背中のケガに悩まされ、昨年6月に現役を引退することを選びました。

 そんな彼が今回セントルイスに戻ってきたのには、素敵な理由がありました。月曜日に行われたブルースの殿堂入り式典に出席するためです。かつての戦友であるバレット・ジャックマンアレクサンダー・スティーンケリー・チェイス、そして名将アル・アーバーたちが称えられる姿を、元選手として見守りました。

ブルースの殿堂入り式典(Blues Hall of Fame)のダイジェスト映像。4名それぞれの現役時代の勇姿を織り交ぜた映像もあるので、そちらも検索してみてください。

バレット・ジャックマン、アレクサンダー・スティーン、ケリー・チェイス、アル・アーバー

バレット・ジャックマンは、1999年のNHLドラフト1巡目17位でブルースに指名されたディフェンスマンで、13シーズンにわたってブルース一筋でプレー。堅実な守備とフィジカルなプレーでチームの青線を支え、通算803試合出場でチーム歴代ディフェンス最高の出場数を記録。新人王に与えられるカルダー・トロフィーを2003年に受賞し、その年のロッキー(新鋭)としての才能を証明した。

 引退後もブルース組織に関わり、アラムナイ・ディレクターとして現役時代以上にチームとファンを結ぶ役割を果たしている。

 アレクサンダー・スティーンは、スウェーデン出身のフォワードで、トロント・メイプルリーフスからトレードで2008年にブルース入りすると、その後12シーズンにわたりチームの中心として活躍。765試合以上に出場し、ゴールやアシストを重ねてチームの歴代記録でも上位に名を連ねる存在となり、2019年のスタンレーカップ優勝にも大きく貢献した。

 ブルース一筋のキャリアを経て引退後はフロントオフィスに入り、2026–27シーズンからはゼネラルマネジャーに就任する予定。

 ケリー・チェイスは、ドラフト外フリーエージェントとして1988年にブルースと契約した右ウイングの選手で、フィジカルでタフなプレースタイルからファンに愛された。NHLでは458試合に出場し、ブルースにおける歴代2位の1,497ペナルティ分を記録するなど象徴的な存在。

 また現役後は長年にわたりブルースのラジオアナリストを務め、チームを語る声として多くのファンに親しまれた。1998年には発達障がいを持つ子どもたちのホッケー参加を支援するプログラム創設など社会貢献が評価され、キング・クランシー賞を受賞。

 アル・アーバーは、ブルースの創設シーズンである1967–68年に初代キャプテンを務め、初期のチームを象徴するリーダー。ブルースでの選手生活後、ニュー・ヨーク・アイランダーズのヘッドコーチとして1979年のジャック・アダムス賞受賞や、1980~1983年までの4年連続スタンレーカップ制覇を成し遂げるなど、NHL史に残る名将として評価されている。

 選手としても複数のチームでスタンレーカップ優勝を経験し、1996年にはホッケー殿堂入りを果たした。ブルースの歴史に名を刻むだけでなく、NHL全体の発展に寄与した人物として今も語り継がれている。

 さらに驚いたことに、翌日・火曜日のブルース対ハリケーンズ戦では、ESPNのカラーアナリストとして放送デビューを飾ったんです!選手としてではなく、ベンチの間から試合を伝えるという新しい役割での登場に、本人も「本当に良い思い出がたくさん蘇ります」としみじみ語っていました。

 「正直に言うと、当時はトレードでここを離れることになって、すごく悔しい気持ちがありました」と、彼は当時の本音を明かしてくれました。自分はこのままブルースの選手として引退するんだろうな、と思っていたそうです。

 でも、今こうして振り返ってみると、ここで過ごした時間やこの場所がいかに特別だったかを、心から感謝できるようになったと言います。自分の解説者としての初仕事が、思い出深いこの場所になったことにも、不思議な縁を感じているようでした。

 試合開始の20分前、彼が放送のためにベンチ近くの定位置につくと、ファンからは温かい歓迎が待っていました。ガラス越しに次々とジャージが投げ込まれ、彼は一つひとつに丁寧にサインを書いていきました。

 「ここのファンがどれだけ僕を支えてくれたか、感謝してもしきれません」。オーシーはそう語ります。ワシントンに移籍した後でも、セントルイスのリンクにくれば自分の背番号74のジャージを着ているファンが見えたそうです。

 自分を支えてくれたファンや、大きな存在だったブルースという組織にどう恩返しをすればいいか分からない、と語るその表情からは、深い愛が伝わってきました。

恩師「チェイサー」への感謝と家族の記憶🎸

 ESPNのポストゲームインタビューを終え、The AthleticとのQ&Aセッションで、オーシーはさらに詳しく今の想いを語ってくれました。今回の殿堂入り式典ではケリー・チェイスが「True Blue Award」を受賞しましたが、オーシーにとって最も感動的だったのは、何よりも「チェイサー(チェイス氏の愛称)」本人に会えたことだったそうです。

True Blue Award

セントルイス・ブルースが組織として長年の貢献や卓越したコミットメントを示した人物に贈る栄誉ある賞。この賞は、単にリンク上での活躍に留まらず、チームやコミュニティに対して大きな影響を与え、ブルースという組織の成長と成功に寄与した人物を称えるために設けられている。

 ケリー・チェイスが受賞した背景には、現役時代の献身的なプレーだけでなく、引退後もブルースのために尽力し続けてきた姿勢が評価されたことがあり、組織とファンからの深い敬意と感謝が込められている。

 「最近はあまりこの街に来ることができないので、モズーリ・アスレティック・クラブのロビーに入った瞬間に彼を見かけて、抱きしめることができたのが僕にとっては一番大切な瞬間でした」と語っていました。

 実は、オーシーがセントルイスでファンからこれほどまでに愛されるようになったのは、チェイサーの教えがあったからなんです。ファンベースにしっかり飛び込み、街に恩返しをする方法を彼から学んだからこそ、今のオーシーがあると言っても過言ではありません。

 式典でレジェンドのブレット・ハルが感極まっている姿を見て、改めてチェイサーがどれほどみんなに大切にされているかを感じ、直接「愛してる、応援しているよ」と伝えられたことに、とても満足している様子でした。

 また、式典ではカントリー界の大スター、ガース・ブルックスの隣に座るという豪華な場面もありました。これも実はチェイサーとの縁で、かつてセントルイスでコンサートがあった際に、オーシーと妻のローランさんをガースに紹介してくれたのが彼だったそうです。

 ガース・ブルックスの曲には、亡き父との大切な思い出も詰まっています。2021年に他界した父のティム(オーシーは親愛の情を込めて「コーチ」と呼んでいました)は大のガースファンでした。

 「今の僕の家では子供たちが車の中の音楽を仕切っているが、僕が子供の頃は『コーチ』が音楽の主導権を握っていた」と、オーシーは懐かしそうに振り返ります。昔、父が運転する1970年製の大きなフォードのトラックの中では、いつもガースの名曲『Friends in Low Places』が流れていたそうです🎶。

ガース・ブルックス、『Friends in Low Places』

ガース・ブルックスはアメリカ合衆国オクラホマ州タルサ出身のカントリー歌手・シンガーソングライターで、1980年代後半から音楽活動を開始し、その後世界的な成功を収めた人物。

 彼はポップやロックの要素も取り入れたカントリーサウンドとエネルギッシュなステージパフォーマンスで幅広い支持を獲得し、アルバムの総売上は1億4,800万枚を超え、これはエルヴィス・プレスリーを上回る数字として「アメリカで最も売れたソロアーティスト」の一人とされる。また多くのチャリティ活動にも積極的に取り組んでいることでも知られる。

 「Friends in Low Places」は、ガース・ブルックスが1990年にリリースしたアルバム『No Fences』のリードシングルとして発表された楽曲で、ビルボードのHot Country Songsチャートで4週連続1位を記録するなど大ヒットとなった。

 この曲はカントリー音楽の象徴的なアンセムとも呼ばれ、1989年にドゥエイン・ブラックウェルとアール・バド・リーによって書かれたもので、主人公が元恋人の結婚式に「正装ではなくブーツで現れ」、社交界の格式やしきたりではなく、自分の「低い場所(ロウ・プレイシズ)」にいる仲間たちこそが本当の居場所だと歌う内容になっている。

 サウンドの魅力と共感性の高さからカントリーの枠を超えて多くの人々に愛されており、カントリーミュージック協会(CMA)やアカデミー・オブ・カントリー・ミュージック(ACM)で年間最優秀シングルにも選ばれた。

 新しいキャリアをスタートさせた今、かつてのホームタウンでこうした思い出に浸る時間は、彼にとってかけがえのないものになったに違いありません。

尊敬するリーダーと、自分を守ってくれた「兄貴」🛡️

 オーシーは、今回殿堂入りを果たしたスティーンとジャックマンについても、深い敬意を持って語っています。まず、アレクサンダー・スティーン(スティーナー)について、オーシーが何よりも感謝しているのは、その「落ち着き」だそうです。

 「彼はどんな瞬間でも自分自身と感情をコントロールするのが本当に上手だった。その場の雰囲気を読み取り、いつ発言すべきか、いつ静かにすべきか、そして選手に寄り添うべきタイミングがいつなのかを完璧に把握していた」と振り返っています。

 スティーナーはオーシーと年齢がそれほど離れているわけではありませんが、彼にとってはまさにリーダーであり、メンター(助言者)のような存在でした。ここで学んだリーダーシップは、後にワシントンへ移籍してからも非常に役立ったそうです。

 一方で、バレット・ジャックマン(ジャックス)のことは、本当の「大きな兄貴」のように慕っています。ジャックスはチームのムードメーカーであり、オーシーが理想とする男性像そのものでした。

 「僕は激しいプレーやヒットを仕掛けるのが好きだったが、実は喧嘩(ファイター)が得意なタイプではなかったんだ。だから、僕が激しく当たって相手が向かってきたときには、いつもジャックスがすぐに現れてくれた」。

 あの強面の表情で相手を圧倒したり、時にはオーシーの代わりにパンチを受けてくれたりしたこともあったそうです。まさに心強い「用心棒」のような存在だったのですね。

背中の痛みは、全力で戦い抜いた「勲章」✨

 多くのファンが心配しているのが、引退の決め手となった背中の状態です。現在の調子を尋ねられると、オーシーは少し苦笑いしながら教えてくれました。

引退の決め手となった背中の状態

T.J. オーシーがキャリア後期から悩まされていた背中の問題は、単なる一時的な痛みではなく、慢性的な背部の損傷とそれに伴う深刻な不調が原因。オーシーは2010年代後半あたりから複数年にわたって背中の症状に苦しみ、2024‑25シーズンは長期故障者リスト(LTIR)入りして一度も試合に出場できないほど深刻な状態となっていた。(RMNB

 医師の診断では、オーシーの背中の痛みは加齢や蓄積した負荷による単なる“摩耗”だけでなく、複数の椎間板に亀裂(tear)が入り、それがねじれや圧縮のたびにさらに悪化していたことが判明。この亀裂がある椎間板は神経を圧迫しやすく、運動時や日常の動作でも激しい痛みや筋痙攣(スパズム)を引き起こしていたと語っている。

 実際に彼は痛みにより動けなくなり、チームホテルで床に倒れ込んでしまった例もあるほどでした。

 症状の改善を目指しオーシーは、従来の治療のほか椎間板に幹細胞注射(stem cell injections)を実施するなど積極的な医療介入も試みた。しかしこれも一定の痛み緩和にはつながったものの、NHLレベルで求められる激しい運動や接触プレーに耐える状態には至らなかったと本人が語っている。

 このような慢性的な背中の不調は、アイスホッケーのような高強度スポーツで頻繁に体幹や脊柱に大きな負担がかかる選手にしばしば見られるもので、単なる筋疲労や軽い捻挫とは異なり、椎間板の構造的損傷や神経への影響を伴うケースでは完治が難しく、プレー続行が著しく困難になることがある。オーシーの引退も、こうした背中の慢性障害との闘いの末に決断されたものである。

 実は一時期、健康状態はかなり良くなっていたそうです。ところが、負けず嫌いな性格が災いしてか、1ヶ月ほど前にピックアップバスケットボールの試合に全力で参加してしまい、それ以来また背中の調子が悪くなってしまったとのことでした。

 「これはもう、仕方のないことだと思っている。あのような激しいプレースタイルで戦っていれば、体が万全の状態で引退できるなんてことはまずないからね」。

あのような激しいプレースタイル

単に目に見えるヒット数が多いというだけではなく、「競争=1対1の戦い」と捉え、身体的な対峙を恐れず、常に相手より先に仕掛ける積極性そのものが彼のスタイル。これは彼自身が少年時代にフットボールのランニングバックとして「当たる前に当たれ」と教わった哲学をそのままアイス上に持ち込んだもの。(The Washington Post

 オーシーは身長180センチ前後とNHLでは大柄とは言えない体格にも関わらず、相手より先にヒット(身体当たり)を仕掛け、パックを追いかける執念と激しいフォアチェックで試合の流れを変えてきた。2018年に優勝したワシントン・キャピタルズでも、彼はチーム内でも上位のヒット数を記録し、エネルギーを与えるプレーヤーとして重宝された。

 彼のコーチは、オーシーがシュートブロックや壁際での激しいボディバトルも厭わず、速いパック回収とポジション争いでチームに勢いをもたらす存在だと評価しています。

 このようなスタイルは試合の要所で相手ディフェンダーと激しくぶつかることを意味し、衝突や身体への繰り返しの負荷を避けられないものだった。そのため背中や上半身への負担は長年蓄積され、オーシー自身が「全力でプレーする性格だからこそ、万全な状態で引退することはあり得なかった」と語る背景となっている。彼が誇りにしているのは、この全力で氷上を戦う姿勢と、それによってチームメイトやファンに影響を与えたという点である。

 こうした激しさは、単にヒットの数値や統計に表れるだけでなく、試合ごとのポジション争いやボディコンタクトの意図的な仕掛け、点差にかかわらず全力でプレッシャーをかけ続ける姿勢として具体的に表れていた。オーシーが背中の痛みさえも「勲章のように誇りに思う」と言うのは、こうした自分のプレー哲学を貫いた結果なのである。

 しかし、たとえ人生をやり直せたとしても、彼は全く同じ方法でプレーしたいと断言しています。それは、自分に限界を設けず、毎晩アイスの上ですべてを出し切ることこそが「T.J.オーシー」という選手そのものだからです。

 今の背中の痛みは、彼がプロとして全力を尽くした証であり、本人はそれを「名誉の負傷(勲章)」のように感じているそうです。

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