はじめに
アイスホッケーの世界にも、サッカーに負けないくらいの“ダービー”があるんですよ!
その代表格が、ニュージャージー・デビルズとニューヨーク・レンジャーズの一戦。わずか数十キロしか離れていないホームを拠点に、40年以上も火花を散らしてきた両チームの因縁は、まさに氷上の戦争。
この記事では、ハドソン・リバーを挟んだNHL屈指のライバル関係の歴史を、熱量そのままにお届けします🔥
参照記事:The Hockey Writers.com「History of the Devils & Rangers Rivalry Through the Decades」
🏒ニュージャージー・デビルズvsニューヨーク・レンジャーズ:ハドソン川を挟んだ因縁の物語
憎しみの起源は明確ではありません。アイスホッケーには、数多くの名勝負がありますが、その中でもデビルズとレンジャーズのライバル関係は、ちょっと特別。
マディソン・スクエア・ガーデン1とプルデンシャル・センター2という、たった数十キロしか離れていない2つのホームを持つこの2チームの間では、血で血を洗うような争いが繰り広げられてきました。
デビルズかレンジャーズ、どちらかのファンに聞けばこう言うでしょう。「相手を憎むのは選択じゃない、生まれついての運命だ」と。今回は、この熱すぎるライバル関係の歴史を、振り返ってみましょう🔥
⏳ライバル関係の始まり:1980~1990年
デビルズは1982年に誕生しました。もともとはコロラドのチームでしたが、移転を繰り返し、ようやくニュージャージー州イーストラザフォード3に落ち着いたのです。
しかし、その存在は当初から懐疑的に見られていました――なぜなら、伝統ある「オリジナル・シックス4」の一角をなすニューヨーク・レンジャーズの本拠地から、わずか11マイル(約17.7キロ)しか離れていなかったからです……。
デビルズは、最初から証明しなければならないことがありました。「なんでこんな近くにチームを作るの?」という疑問の声が多く、デビルズは当初から冷ややかな目で見られていました。
チームの成績はパッとせず5、ファンも少なかったため、レンジャーズファンからは嘲笑の的にされがちでした。一方、レンジャーズのファンは誇り高く、強い縄張り意識を持っており、ニュージャージーの新参者を自分たちの領域を脅かす存在と見なしていたのです。
氷上では、両チームの進む道は対照的でした。
レンジャーズは、スタンレーカップ獲得には苦戦していたものの、1980年代を通じて6コンスタントにプレーオフに進出しています。一方のデビルズは、シーズンの大半を最下位近くで終え、プレーオフにすら進出できない年が続きました。
だが、その裏でデビルズは着実に土台を築いていたんです。
1987年、ルー・ラモリエロ7がGMに就任。この人事が、フランチャイズの方向性を大きく変えることになります。彼は規律を植え付け、スカウトや選手育成の体制を一新し、「守備重視」「構造重視」「勝利重視」の長期的なビジョンを打ち立てました。
そして1987-88年シーズン、デビルズはついに殻を破ります。レギュラーシーズン最終日、ジョン・マクリーン8の延長戦決勝ゴールでチーム初のプレーオフ進出!デビルズはその潜在能力を示し、ニュージャージー地域の多くのファンが地元チームを応援するようになりました。
この日から、デビルズとレンジャーズの間の対立はさらに深まっていったのです🔥
💥デビルズの試練の90年代、対立は激化!
1990年代になると、このライバル関係は本物の「戦い」へと進化していきます。この10年間で、両者の対立は爆発的に激化しました。
ラモリエロGMとヘッドコーチのジャック・ルメール9の指導のもと、ゴールにはスター選手マーティン・ブロデュー10、守備陣にはフィジカルなリーダー、スコット・スティーブンス11が揃い、デビルズは真のプレーオフ常連チームとなっていきます。
レンジャーズは攻撃的なチームスタイルで毎年のように強さを見せていた一方で、デビルズは守備重視の堅実なホッケーを貫いていました。どちらも違う哲学を持っていたからこそ、対戦するとバチバチに🔥
この10年で、両チームは3度プレーオフで激突。初対決は1991-92シーズン、この初のポストシーズン対決は期待に違わぬ熱戦となり、レンジャーズがシリーズを4勝3敗で制しました。
そして1993-94シーズン――両チームは再びプレーオフで対決。このシリーズは第7戦までもつれこみ、ステファン・マトーによる伝説のダブルオーバータイムのゴール12によってレンジャーズが勝利を手にした。そのままニューヨークは54年ぶりにスタンレーカップを制覇することになります。
場内の熱気が凄そう…。このゴールシーンがNHLの醍醐味なわけよ。
一方、デビルズは無念の敗退となり、雪辱を誓うこととなりました。
3度目の対戦となる1997年には、マーク・メシエ、ウェイン・グレツキー、マイク・リヒター13といったスター揃いのレンジャーズが、イースタン・カンファレンス準決勝でデビルズを下し、再びその道を阻んだのです。
デビルズファンからすれば、まさに「悪夢の連続」のような時代だったかもしれません😤
🏆2000年代、デビルズの逆襲
ところが、時代は変わります。2000年代に入ると、デビルズが本領を発揮し、このライバル関係において主導権を握ります!
2000〜2003年の間に、この時期、デビルズはスタンレーカップを2度も獲得✨しかも、対レンジャーズ戦では常に優位に立ち、完全に主導権を握りました。
デビルズが毎年のように優勝争いに加わる強豪として確固たる地位を築いていく一方で、レンジャーズは1997〜2006年にかけてプレーオフ進出すらできず、その成功を横目で見るしかなかったのです。守備的で緻密なプレースタイルに、レンジャーズはなかなか太刀打ちできなかったんです。
「憎しみ?どれくらいかなんて言えないよ。とにかく桁外れだった」と語るのは、長年デビルズのディフェンスを支え、現在はチームの放送で活躍しているケン・ダニエコ14。「暗黙のルールとして、あいつらの名前を口にすることすらなかったんだ」。
2006年、両チームは再びプレーオフの舞台で相まみえ、ついにデビルズはフランチャイズ史上初となるプレーオフ4戦全勝のスウィープを達成。これはデビルズにとって歴史的快挙。
マーティン・ブロデューは、レンジャーズファンのトラウマレベルの存在となり、パトリック・エリアシュ15、スコット・ニーダマイヤー16、ジョン・マッデン17といった名前は、ニュージャージーの緻密で破壊力あるスタイルの象徴として記憶されました😈
⚔️2008年、熱狂が最高潮に!ショーン・エイブリーの挑発事件
2008年、両チームの対決はさらに荒々しい展開を見せていきます。原因のひとつは、レンジャーズの“トラブルメーカー”ショーン・エイブリーでした。彼はシリーズ中、NHL史上最も物議を醸した行為の一つを行い、自らこの争いの中心に飛び込んで行きます。
プレーオフの試合中、エイブリーはデビルズの守護神ブロデューの目の前に立ちはだかり、手やスティックを振り回し、わざと気を散らすという“やりすぎ”な挑発を仕掛けました(その後、エイブリーはパックを拾い、パワープレーゴールを決めている)。
これがその当時の映像。邪魔してるというより、もうケンカ状態ですよね、コレ。
このスポーツマンシップに反する行為はリーグから即座に注意され、新たに通称「ショーン・エイブリー・ルール」と呼ばれるゴールキーパーへの挑発禁止ルールが生まれるほど。
そのシリーズはレンジャーズが4勝1敗で勝利したものの、ブロデューはエイブリーと握手を拒否し、両チームの敵対心はさらに深まりました🔥
🌟2012年の壮絶対決:スタンレーカップファイナルへの道
そして2012年、1994年以来、スタンレーカップ決勝への切符をかけて、実に18年ぶりとなるイースタン・カンファレンス決勝で、デビルズとレンジャーズが激突。
レンジャーズは東地区第1シードとして経験豊富なベテラン勢を揃え、特にゴールキーパーのヘンリク・ルンドクヴィスト18が冷静沈着かつ頼もしい存在でした。
一方のデビルズは第6シードながら、粘り強く、過小評価されながらも勝ち上がり、伝説のブロデューが最後のプレーオフを戦い、強靭で侮れないチームとして立ちはだかります。
プレーオフでは、スクラム、激しいヒット、容赦ないフォアチェックが全試合を通して繰り広げられ、まさに総力戦。レギュラーシーズン最後の対決で乱闘が起きた緊迫感そのままに、どのゲームも白熱しました。
レンジャーズはクリス・クライダー(現アナハイム・ダックス)の攻撃的な起用により有利に見えたのですが、デビルズはこれまでの悔しさをバネに、過去の因縁を覆す覚悟で臨んでいました。
第6戦、60分間の激闘を経て、スコアは2-2のまま延長へ。そして延長開始からわずか2分足らず、ルーキーのアダム・ヘンリク(現エドモントン・オイラーズ)がゴール前の混戦からパックを押し込み、ルンドクヴィストを破って決勝点を挙げ、シリーズを決着。
デビルズのホームスタジアム「ザ・ロック(プルデンシャル・センターの通称)」は歓喜の渦に包まれました。その瞬間、ドク・エムリック19の「ヘンリク!イッツ・オーバー!」の名実況が響き渡り、ファンの心に深く刻まれています✨
🔄2013年以降:新たな時代の始まり
2012年の激戦による感情の高ぶりの後、両フランチャイズは過渡期を迎えることになりました。デビルズは監督交代やロースターの入れ替えを繰り返したりしてチームの再建を進め、一方のレンジャーズも、ベテラン選手の引退や移籍により、新しい世代への移行を進めていきます。
プレーオフでの直接対決はしばらくなくても、レギュラーシーズンの試合では常にライバル心が燃え続けていました🔥
👊現代の激しい乱闘劇:2023年の大乱闘
両チームが再建期にある間でも、殴り合い、挑発、そして満員の観客は川を挟んだライバル対決は決して静かではありません。特に2023年3月11日には、12年前の乱闘を彷彿とさせる大乱闘がマディソン・スクエア・ガーデンで勃発。
きっかけはレンジャーズのマット・レンペがデビルズのヨナス・ジーゲンタラーに肘打ちし、レンペは4試合の出場停止(罰金額は約1万7千ドル、選手緊急支援基金へ寄付)、ジーゲンタラーは脳震盪を負いました(その後長期欠場)。
緊張は高まり続け、約1か月後の再戦(4月3日)では、試合開始直後(開始2秒)に実際に「グローブが飛んだ」。フェイスオフ直後、両チームは第4ラインを送り出し、氷上の10人全員が同時に殴り合いに突入(ここでもレンジャーズ:マット・レンペvsデビルズ:カーティス・マクダーミッドの殴り合いが一番長かった。フェイスオフ前、両者は睨み合い)。
結果、試合は8人の退場処分、18件のマイナーペナルティ(2分間)、10件のメジャーペナルティ(5分間)、そして計130分のペナルティタイムという混乱を極めた展開に💥デビルズは第1ピリオドだけで球団史上最多の86分のペナルティを科されました。
2023-24シーズンのレギュラーシーズンではレンジャーズがデビルズをスウィープ。しかし翌シーズン、デビルズは3勝0敗1分でリベンジを果たし、そのうち2試合でブルーシャツ(レンジャーズ)を完封しています。

2020年代のレンジャーズのトラブル・メーカーは、マット・レンぺで決まりかにゃ。とにかくどんなペナルティを科されても、全く反省しないし、いつもニヤニヤ笑って獲物を狙っている。優男タイプなだけに、その態度がよけい不気味に見える。トレードに出されるかもしれないけど、受け入れ先はあるかなぁ…。素質は十分にある選手なのに、勿体無い。
🔮これからの展望:ライバルの火は消えない
40年以上続くデビルズとレンジャーズの因縁は氷上を越え、文化的衝突へと進化してきています。ファンはお互いの存在を嫌うだけでなく、その憎しみを「誇り」のように感じているんです。
東海岸ホッケーの鼓動そのものであり、両チームが対戦していないときですら、ファンたちはこの憎しみをまるで勲章のように背負っています。
両陣営のファンは、ハドソン川を挟んだ宿命の対決の次なる章を心待ちにしています。しかし、それが訪れるのは少し先で、次のシーズンでの直接対決はわずか3試合――すべてが3月に予定されています。
プレーオフ進出をかけた状況が予想される中、それぞれの試合が一層の重みを持ち、両チームが再びぶつかり合うとき、その激しさと緊張感はかつてないほど高まることになるでしょう🔥。
まとめ
デビルズとレンジャーズの対立は、単なる勝敗を超えた“東海岸の物語”。激闘、乱闘、名場面…40年以上にわたり紡がれてきた因縁は、これからも続いていきます。次の対戦が、また新たな伝説になるかもしれません🔥ファンなら絶対に見逃せません!

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!
【註釈】
- ニューヨーク市にある世界的に有名な多目的アリーナ。「MSG」の愛称で親しまれ、1968年に現在の建物が完成した。このアリーナは、バスケットボールのニューヨーク・ニックスとアイスホッケーのニューヨーク・レンジャーズの本拠地であるほか、ボクシングや総合格闘技の歴史的な試合も数多く開催されてきた。
また、コンサート会場としても知られ、多くの有名アーティストがライブを行っており、音楽の「聖地」の一つとしても有名。スポーツ、音楽、政治集会など、さまざまなイベントが開催される、ニューヨークの象徴的な場所。
↩︎ - ニュージャージー州ニューアークにある多目的アリーナ。「ザ・ロック(The Rock)」という愛称でも知られ、2007年に開場した。このアリーナは、NHLのニュージャージー・デビルズの本拠地であり、カレッジバスケットボールの試合も開催。
また、数多くの有名アーティストがコンサートを行う会場としても有名。
↩︎ - ニュージャージー州にある町で、人口は少ないものの、スポーツとエンターテイメントの中心地。この町の最大の魅力は、巨大な複合施設「メドウランズ・スポーツ・コンプレックス」。
ここにはNFLのニューヨーク・ジャイアンツとニューヨーク・ジェッツの本拠地である「メットライフ・スタジアム」がある。スーパーボウルや2026 FIFAワールドカップの開催地にも選ばれるなど、ニューヨーク都市圏における重要な役割を担う場所。
↩︎ - 1942~1967年までリーグを構成していた6つの伝統的チームの総称。モントリオール・カナディアンズ、トロント・メープルリーフス、ボストン・ブルーインズ、ニューヨーク・レンジャーズ、シカゴ・ブラックホークス、デトロイト・レッドウィングスの6チームで構成され、現在も人気と影響力を誇る。
「オリジナル」といってもNHL創設時のメンバーとは限らず、あくまで長期間リーグを支えた固定チームという意味で使われている。
↩︎ - デビルズの1980年代は、チームの礎を築いた時期として知られている。
チームの誕生
1982年、コロラド・ロッキーズがニュージャージー州ニューアークに移転し、ファン投票によってチーム名が「ニュージャージー・デビルズ」に決定。チーム名は、州南部の松林地帯に生息するとされる伝説上の生物「ジャージー・デビル」に由来している。
本拠地はメドウランズ・スポーツ・コンプレックス内のブレンダン・バーン・アリーナ(後のアイゾッド・センター)に置かれた。
チームの成績と主な出来事
チーム創設当初は成績が振るわず、1982-83シーズンの成績は17勝49敗14分け。しかし、1987年にゼネラルマネージャーに就任したルー・ラモリエロのリーダーシップの下で徐々にチームが再建され、組織としての基盤が固められていく。
1987-88シーズンには、デビルズ史上初のプレイオフ進出を果たし、カンファレンス決勝まで駒を進めるという躍進を遂げた。
1980年代の主な選手
アーロン・ブローテン:創設当初のチームを牽引した選手の一人で、1982-83シーズンにはチーム最多の55ポイントを記録。
ケン・ダネイコ:1982年のドラフトで指名され、チームの歴史上、最も長く在籍した選手の一人。彼は後に「ミスター・デビル」として敬愛される存在に。
パット・ヴァービーク:1983-84シーズンにはチーム最多の32ゴールを挙げるなど、チームの得点源として活躍。
↩︎ - レンジャーズの1980年代は、チームの再建期であり、未来の成功に向けた基盤を築いた時期として位置づけられている。スタンレーカップを獲得することはなかったが、コンスタントにプレイオフに進出する安定したチームだった。
チームの成績
1980年代を通して、レンジャーズはほぼ毎年プレイオフに進出。特に1980-81シーズンと1985-86シーズンには、カンファレンス決勝まで進出する健闘を見せた。しかし、スタンレーカップ制覇には至らず、この期間は「決して悪くはないが、決して最高でもない」という評価を受けることが多かったようである。
1980年代の主な選手
ロン・デュゲイ:ロックンロールの髪型と派手なプレースタイルで人気を博したフォワード。ニューヨークでスター選手として注目を集めた。
バリー・ベック:チームの守備の要であり、キャプテンも務めたディフェンスマン。激しいプレースタイルでチームを鼓舞した。
ブライアン・リーチ:1986年のドラフトで指名され、1987-88シーズンにNHLデビュー。彼は1990年代にチームの顔となり、1994年のスタンレーカップ優勝に大きく貢献。1980年代後半に現れた彼のような若手選手が、チームの未来を切り開くことになる。
マイク・アリソン:チームの得点源の一人として、コンスタントに活躍。
1980年代は、後の1994年のスタンレーカップ優勝につながる若い才能が芽生え始めた、チームにとって重要な過渡期と言える。
↩︎ - NHLにおける長年のキャリアを持つ、極めて影響力のあるホッケーエグゼクティブ。GMおよび社長として知られ、1987~2015年までデビルズのGMを務めた期間はNHL史上3番目に長く、低迷していたチームを、3度のスタンレーカップ優勝(1995年、2000年、2003年)を誇る強豪へと変貌させた。
ラモリエロのマネジメントスタイルは、厳格な契約交渉、独自の企業文化の構築、そして選手育成とチームの規律に焦点を当てたことで知られている。しかし、アイランダーズに移って以降、戦力補強が上手くいかず、プレーオフ進出を果たしても、ファーストラウンドで敗退が続いたため、2025年シーズン終了後、契約終了。
↩︎ - デビルズで長く活躍したライトウィング。
選手キャリアのハイライト
デビルズのレジェンド:1983年のNHLドラフトでデビルズに6位で指名され、チームのフランチャイズ記録を多数更新。2009年にパトリック・エリアシュに抜かれるまで、チーム史上最多得点者だった。
記憶に残るゴール:1988年4月3日のシカゴ・ブラックホークス戦で、チームを初のプレイオフ進出に導く劇的なオーバータイムゴールを決めた。
スタンレーカップ優勝:1995年にデビルズの選手として、そして2003年にはデビルズのアシスタントコーチとして、計2度のスタンレーカップ優勝を経験。
引退後のキャリア
引退後はコーチに転身し、デビルズのアシスタントコーチ、ヘッドコーチなどを歴任。
↩︎ - 選手としてのキャリア
モントリオール・カナディアンズでの活躍:1967~1979年までモントリオール・カナディアンズで12年間プレイし、チームを8度のスタンレーカップ優勝に導いた。
殿堂入り:1984年にホッケー殿堂入り。
コーチとしてのキャリア
デビルズでの成功:1993~1998年までデビルズのヘッドコーチを務め、1995年にはチーム史上初のスタンレーカップ優勝を果たした。
「ニュートラルゾーン・トラップ」:「ニュートラルゾーン・トラップ」という守備的な戦術を確立し、デビルズをリーグ屈指の強豪チームに育てた。この戦術は、当時のホッケー界で物議を醸したが、その有効性は証明された。
ジャック・アダムズ賞:1994年と2003年の2度、NHLの最優秀コーチに贈られるジャック・アダムズ賞を受賞。
複数のチームを指導:デビルズの他に、モントリオール・カナディアンズとミネソタ・ワイルドのヘッドコーチも務めた。ワイルドでは、チーム初のコーチとして2003年にはカンファレンス決勝まで進出。
↩︎ - キャリアと功績
スタンレーカップ優勝:デビルズで3回のスタンレーカップ優勝(1995年、2000年、2003年)を経験。
NHLの記録:レギュラーシーズンでの通算勝利数(691)、完封数(125)、出場試合数(1,266)でNHL歴代1位の記録を保持。また、8シーズンで40勝以上を挙げた唯一のゴールテンダー。
個人賞:ヴェジーナトロフィー(最優秀ゴールテンダー)を4回、ウィリアム・M・ジェニングストロフィーを5回受賞。
殿堂入り:2018年にホッケーの殿堂入り。
プレースタイル
ハイブリッドスタイル:彼は典型的なバタフライスタイルよりも、より立ち上がった姿勢を保つ独自のハイブリッドなゴールテンディングスタイルを採用。
パックスキル:特にパックスキルに優れており、チームメイトからは「追加のディフェンスマン」に例えられた。彼の卓越したパックスキルを制限するために、NHLでは「ブロデュー・ルール」として知られるルールが導入された。
↩︎ - 選手キャリアのハイライト
デビルズのキャプテン:1992〜2004年までニュージャージー・デビルズのキャプテンを務め、チームを3度のスタンレーカップ優勝に導いた。
激しいプレースタイル:攻撃的な能力も持ち合わせていたが、特に激しいボディチェックと守備的なプレースタイルで知られている。
コーン・スマイス・トロフィー受賞:2000年のスタンレーカッププレーオフでは、最優秀選手に贈られるコーン・スマイス・トロフィーを獲得。
NHL記録:NHLのディフェンスマンとして歴代最多出場記録(1,635試合)を保持。
殿堂入り:2007年にホッケーの殿堂入りを果たし、2017年には「NHL史上最も偉大な100人の選手」に選ばれた。
↩︎ - このゴールは、1994年5月27日のイースタンカンファレンス決勝第7戦で生まれた。
ゴールが決まった状況:レギュラータイム終了間際にデビルズが同点に追いつき、延長戦に突入。試合は2度目の延長戦までもつれ込んだ。
ゴールの詳細:マテューは、デビルズのゴール裏からパックを奪い、ゴールテンダーのマーティン・ブロデューの周りを回り込んで、ライトポスト付近からラップアラウンドシュート(攻撃側の選手がゴール裏からパックを持って回り込み、ゴールポスト付近で素早くシュートを放つプレー)を決めた。
ゴールの重要性:このゴールが、レンジャーズをスタンレーカップ決勝に導き、レンジャーズは54年ぶりとなるスタンレーカップ優勝を果たした。
ラジオ実況:このゴールは、当時のラジオ実況ホウィー・ローズの「Matteau!Matteau!Matteau!」という名実況とともに、レンジャーズの歴史に残る象徴的な瞬間として記憶されている。
↩︎ - 1994年のスタンレーカップ優勝の立役者の一人であり、その活躍はチームの長年の悲願を達成する上で不可欠だった。
リヒターは、ハイブリッドなゴールテンディングスタイルと機敏な動きで知られ、国際舞台でも1996年ワールドカップ・オブ・ホッケーでMVPを獲得するなど、輝かしい実績を残した。2008年にはアメリカ合衆国ホッケー殿堂入りを果たしている。
↩︎ - デビルズのディフェンスマンとして、20シーズンにわたって活躍。
選手キャリアのハイライト
「デビルズ・ライフタイム・デビル」:1983〜2003年までデビルズ一筋でプレーし、チームのフランチャイズ記録となる1,283試合に出場。彼のニックネーム「デビルズ・ライフタイム・デビル」は、彼の忠誠心と功績を象徴している。
スタンレーカップ3度優勝:チームの中心選手として、1995年、2000年、2003年のスタンレーカップ優勝に貢献。
プレースタイル:彼はフィジカルでタフな守備型ディフェンスマンであり、チームメイトやファンからは「心臓と魂」として知られている。彼の激しいプレーとリーダーシップは、デビルズの守備的なチームカルチャーを築く上で不可欠な要素。
個人賞:2000年には、粘り強さと献身を称えるビル・マスタートン・トロフィーを受賞。
永久欠番:2006年には、背番号3がニュージャージー・デビルズの永久欠番に。
↩︎ - 選手キャリアのハイライト
デビルズのフランチャイズ記録保持者:左ウィングとして20シーズンにわたりデビルズ一筋でプレーし、チームの通算ポイント(1,025)、通算ゴール(408)、通算アシスト(617)の記録を保持している。
スタンレーカップ2度優勝:2000年と2003年にデビルズの一員としてスタンレーカップ優勝を経験。
チーム初の欧州出身キャプテン:2006年にデビルズのチーム史上初のヨーロッパ出身のキャプテンに就任。
国際大会での活躍:2006年のトリノオリンピックでは、チェコ代表として銅メダル獲得に貢献。
永久欠番:2018年、背番号26がデビルズの永久欠番に。
↩︎ - 選手キャリアのハイライト
攻撃的なディフェンスマン:優れたスケーティング能力とパックハンドリングのスキルで知られ、守備的な状況から攻撃を仕掛けるスタイルで「攻撃的ディフェンスマン」としての地位を確立。
スタンレーカップ4度優勝:デビルズで3回、アナハイム・ダックスで1回、合計4回のスタンレーカップ優勝を経験。
主要個人賞の受賞:2003-04シーズンには、NHLの最優秀ディフェンスマンに贈られるジェームス・ノリス・メモリアル・トロフィーを受賞。さらに、2007年にはプレーオフ最優秀選手に贈られるコーン・スマイス・トロフィーを獲得。
トリプルゴールドクラブ:オリンピック、世界選手権、スタンレーカップというホッケー界の主要な3つのタイトルをすべて制覇した「トリプルゴールドクラブ」の一員。
永久欠番:背番号27は、デビルズとダックスの両チームで永久欠番。
殿堂入り:2013年にはホッケーの殿堂入り。
↩︎ - 選手キャリアのハイライト
優れた守備的フォワード:派手なゴールこそ少なかったものの、高い守備力と顔面ブロックを恐れない献身的なプレーで知られている。チームにとって不可欠な「チェック・フォワード」として、相手チームの強力なラインを封じ込める役割を担った。
スタンレーカップ3度優勝:デビルズで3回のスタンレーカップ優勝(1995年、2000年、2003年)を経験。
セルケ・トロフィー受賞:2001年には、フォワードとしての守備的貢献度が最も高かった選手に贈られるフランク・J・セルケ・トロフィーを受賞。
チームへの貢献
マッデンはデビルズのチームカルチャーを体現する選手であり、彼のタフで粘り強いプレースタイルは、チームの守備的な成功に大きく貢献した。彼はキャリアのほとんどをデビルズで過ごし、チームの黄金時代を支えた中心人物の一人として、今もなおファンから敬愛されている。
↩︎ - “キング・ヘンリク”の異名を持ち、2005年以降15年間にわたりニューヨーク・レンジャーズの守護神として活躍。史上初となるNHL初7シーズン連続30勝や2012年のヴェジナ・トロフィー受賞など輝かしいキャリアを築いた。
国際舞台でも2006年五輪金・2014年銀・2017年世界選金とその実力を証明し、2023年にはホッケー殿堂、2025年にはIIHF殿堂入りしている。
↩︎ - マイク・“ドク”・エムリックは、1970年代からNHL実況界を支えてきた伝説的なストークキャスター。博士号に由来する愛称と洗練された語彙で知られ、スタンレー・カップ決勝22回やオリンピック6大会を手がけ、エミー賞9回受賞・米国ホッケー殿堂初の放送関係者殿堂入りなど華々しい功績を築いた。
2020年に47年のキャリアを締めくくりつつ、現在もナレーションなどでその声を届け続けている。 ↩︎