はじめに
今回は、NHLの歴史に輝くルーキーたちの、ちょっと変わった、そしてすごいエピソードをご紹介します🏒✨。ホッケー界の次世代を担う若き才能たち。彼らの中には、誰もが驚くような偉業を成し遂げたり、ルールすら変えてしまうようなインパクトを残した選手たちがいます。
今回は、プロホッケー記者協会が選出する「オールルーキーチーム」にまつわる、知られざるドラマや珍事にスポットを当ててみました。
カルダー記念賞の最多票を得ながらも選出を逃した選手や、31歳でルーキーと認められた異色の存在など、思わず「へぇ!」と言ってしまうようなエピソードが満載です。
ホッケーファンはもちろん、初めてNHLに触れる方にも楽しんでいただける内容になっています。ぜひ最後までご覧ください!
参照記事:The Hockey News「Five NHL All-Rookie Team Oddities」
NHLの歴史に名を刻んだルーキーたち!知られざる偉業と珍事
1982-83シーズンから、プロホッケー記者協会が選出している「(6人の優秀なルーキーで構成される)オールルーキーチーム1」には、いくつかの興味深い選出もあれば、注目すべき落選もあり、本当にたくさんのドラマがあったんです。
伝説のロサンゼルス・キングス!3人同時選出の快挙👑(1987年)
オールルーキーチームに、同じチームから2人の選手が選ばれることはよくあります。例えば、2024年にはミネソタ・ワイルドのブロック・フェイバーとマルコ・ロッシが選ばれていますね👏2人同時選出を達成した最新のパターンです。
でも、同じチームからなんと3人の選手がこの栄誉を受けたのは、たった一度だけなんです!それが、1987年のロサンゼルス・キングスの選手たちでした。
この時選ばれたのは、レフトウィングのルック・ロビタイユ2、センターのジミー・カーソン3、そしてディフェンスのスティーブ・デュシェーン4の3人です。ロビタイユは、さらにその年のリーグ最優秀ルーキーに贈られる「カルダー記念賞5」も受賞するという、まさに大活躍でした🏆
同じチームから3人ものルーキーがトップ選手として認められるなんて、本当にすごいことなんですよ!このチームは、きっとそのシーズン、とてつもない盛り上がりだったんだろうなぁと想像してしまいます!
ロケット不発、伝説のルーキーがまさかの選外に?!🤯(1992年)
通常、「カルダー記念賞」を受賞した選手は、その年のオールルーキーチームにも選ばれるものなんです。しかし、1992年にこの常識が覆される珍事が起きました、その選手は不注意による不選出となったんです😲。
この珍事の主役は、「ロシアン・ロケット6」の異名を持つパベル・ブレ(バンクーバー・カナックス)です。彼は、カルダー記念賞の投票で最も多くの票を獲得したにもかかわらず、なぜかオールルーキーチームには選ばれませんでした😱。
ブレと言えば、カナックスの印象が強いですが、移籍したパンサーズ時代も個人タイトルを獲得している。
一体なぜこんなことが起きたのでしょうか?🤔実は、彼がシーズン中にレフトウィングとライトウィングの両方をこなしていたことが原因だったんです。
ブレへの投票もポジションごとに票が分かれてしまったため、結果として、ライトウィングで最も多くの票を得たのはトニー・アモンテ7で、レフトウィングではギルバート・ディオンヌ8が最も多くの票を獲得してしまったんです。
この一件を受けて、翌1993年には「ウィング2人とセンター1人」を選ぶようにルールが変更されました。そして、さらにその2年後には「ポジションに関係なく、最も優秀なフォワード3人」を選ぶという、より柔軟なルールに変わっていったのです。
ルールが変わるきっかけになったブレのエピソードは、彼の活躍がどれだけ突出していたかを示す、いい意味でユニークな話となりました!
イーグルが飛ぶ!3つの賞を総なめ!超絶ルーキー・ゴールキーパー🦅(1991年)
ルーキーシーズンに大活躍して、最優秀ルーキーに選ばれるだけでなく、もう一つ別の賞をもらう選手もいます。例えば、トニー・エスポジト9は1970年にカルダー記念賞とヴェジーナトロフィー10を、トム・バラッソ11も1984年に同じ偉業を達成しています。
でも、ルーキーとしてなんと3つもの賞を同時に獲得した選手が、たった一人だけいるんです!👏
それが、1990-91シーズンに大活躍したエド・ベルフォア12です!彼はこの年、NHLのゴールキーパーの中で、出場試合数、勝利数、平均失点率、セーブ率のすべてでトップに立ちました。
その結果、「カルダー記念賞」「ヴェジーナトロフィー」「ジェニングス賞13」という3つの主要な賞を総なめにしたんです🤩。
さらに、彼はファーストチームのオールスター14にも選ばれています。新人とは思えない、まさに驚異的なパフォーマンスと言っていいでしょう!彼の活躍は、まさに伝説として語り継がれています✨。
31歳でルーキー⁉️異例の最年長受賞者👴(1990年)
ルーキーといえば、若い選手のイメージがありますよね。でも、NHLの歴史には、年齢の概念を覆すような、驚きのルーキーがいたんです!
その選手は、元ロシアのスター、セルゲイ・マカロフ15。彼は1989-90シーズンにカルガリー・フレームスで86ポイントを獲得し、ルーキーの得点王に輝きました👑。しかし、なんとこの時、彼は31歳だったんです!😲
マカロフの背番号は24。この映像は最近アップされたもの、今でも鮮烈な印象が残っているから映像アップされるのでしょう。
当時、ルーキー得点で2位だったマイク・モダノより12歳も年上で、さらに、彼はすでにソビエトリーグ16で13年ものプロ経験を積んでいました。
同世代のルーキーより10歳以上年上であったにもかかわらず、NHLの基準ではルーキーと見なされ、マカロフは1990年に「カルダー記念賞」とオールルーキーチームに選出されました。これらの偉業を達成したNHL史上最年長での達成となりました🏆。
彼の受賞をきっかけに、翌シーズンから「ルーキーの資格は25歳以下の選手に限定」というルールが作られることになったほど、異例の出来事だったんです!
ここでもマカロフのおかげでルールが変わったなんて、彼の活躍がどれだけインパクトがあったかがわかります!
2度もオールルーキーチームに選ばれた選手たち!🥅
オールルーキーチームに選ばれるだけでもすごいのに、なんと2度も選ばれた選手がいるんです!しかも、彼らはどちらもゴールキーパーでした🧤✨
一人目は、ジェイミー・ストール17です(1998年、1999年)。彼は1997-98シーズンにキングスで17試合に出場し、2.22の平均失点率と2つのシャットアウトという優秀な成績を収めて、1998年のオールルーキーチームに選ばれました。
実は、そのシーズンの出場試合数が25試合未満だったため、翌年もルーキーとして扱われたんです。そして、1998-99シーズンには28試合に出場、2.40の平均失点率と4つのシャットアウトを記録し、またしてもオールルーキーチームの栄誉を勝ち取ったんですよ!
同じ偉業を達成した二人目は、その15年後、セントルイス・ブルースのジェイク・アレン18です(2013年、2015年)。彼はストールと同じく、2度にわたってオールルーキーチームに選ばれました。ただし、彼は連続したシーズンではありませんでした。
2012-13シーズンのロックアウト19で短縮されたシーズンに15試合に出場し、9勝1シャットアウトを記録し、オールルーキーチームに初選出されました。そして、2シーズン後、アレンは22勝7敗4分け、4シャットアウトを記録し、2015年に再びこの栄誉に輝きました。
2人とも、ルールをうまく活かしたという点で(誰が指示したんだろ?)、非常にユニークな選手たちですよね!

「えっ、そんなルールも決めてなかったの?」って事例もあったりして、最優秀新人賞のルールがコロコロ変わっていくのが、とてもユニークだったにゃ。一番印象に残ったのは、普通、キャリア中「新人賞獲得のチャンスは1回」と思いがちなんだけど、2回獲得した選手がいたってこと。今後、大学4年間プレーした選手へのチャンス枠を拡げてほしいような…。
まとめ
NHLのルーキーたちには、ただ素晴らしいプレーをするだけでなく、歴史に深く刻まれるようなドラマがあったんですね。3人のチームメイトが同時に選出された快挙や、31歳でルーキーと認められた異例のケース、さらにはルール変更のきっかけを作った選手まで。
この記事で紹介したエピソードは、ホッケーの奥深さを改めて感じさせてくれたのではないでしょうか。若き才能たちが織りなす感動的な物語は、これからも私たちの心を掴んで離さないでしょう。

ここまで読んでくれて、サンキュー、じゃあね!
【註釈】
- シーズン終了時にプロホッケー記者協会(PHWA)が選出する、ルーキー選手6名による理想の布陣のこと。1名のゴールテンダー、2名のディフェンス、3名のフォワードで構成される。この選出は1982‑83シーズン以降継続されており、多くのスター選手が名を連ねてきた。
ルーキーの資格条件
カルダー記念トロフィーの受賞資格と同じ条件が適用される:過去に25試合以上を単一シーズンで出場していないこと、あるいは2シーズンにわたりそれぞれ6試合以上に出場していないこと。そして、9月15日時点で26歳未満であること。
↩︎ - 1966年2月17日生まれ、現在はロサンゼルス・キングスの社長。彼は1984年のNHLドラフトで171位という下位指名からキャリアをスタートさせ、19シーズンにわたってNHLで活躍した。
NHL史上最高の得点を記録した左ウィングとして知られ、ロサンゼルス・キングスのフランチャイズ記録を複数保持している。また、1986-87シーズンには、NHLのトップルーキーに与えられるカルダー記念賞を受賞。彼の背番号20は、キングスの永久欠番。
↩︎ - 1968年7月20日、アメリカ出身、NHLで10シーズンにわたり活躍した。1988年には10代で50ゴールを達成した歴史的記録を立て、1987年にはNHLオールルーキーチームにも選ばれた。
1988年のグレツキーを含む大型トレードや故郷デトロイトでのプレーなど、波乱に富んだ経歴を持ち、引退後はファイナンシャル・プランニングの資格を活かし、保険会社に勤めている。
↩︎ - 1965年6月30日生まれ。ドラフト未指名からロサンゼルス・キングスと契約し、1986‑87年にNHLデビューしてオールルーキーチームに選ばれた攻撃型ディフェンス。
1988‑89シーズンには、ディフェンスとして最多のショートハンド・ゴールを記録するなど攻撃面で突出。同年以降、複数チームを渡り歩き、1991年のリンドロス絡みの大型トレードではケベック・ノルディックスへ。
キャリア最高の82ポイントを記録した後、オタワやセントルイスなどを経て、最後はデトロイトで2002年にスタンレー・カップを獲得して引退した。引退後はテキサス州在住でユースチームの指導にも携わり、Allen Americansの共同オーナーでもある。
↩︎ - カルダー・メモリアル・トロフィーは、NHLで最も活躍した新人選手(ルーキー)に贈られる由緒ある賞で、1936–37シーズンから毎年授与され、プロホッケー記者協会による投票で選出される。
受賞には「過去25試合以上の出場なし」「2シーズンで6試合以上の出場なし」といった厳格な出場制限のほか、26歳以下という年齢制限も設けられています(1990–91シーズン以降)。2025年の受賞者は、モントリオールのディフェンス、レーン・ハットソンで、ルーキーとして66ポイントと60アシストを記録し、最多票を得て栄誉を獲得した。
↩︎ - 1991‑92シーズンのカナックスでの NHL デビュー時、Vancouver Sun のコラムニスト Iain MacIntyre による「スプートニク以来もっとも速いソビエト製」との表現に端を発している。
ブレ の圧倒的なスケーティングスピード、敏捷性、加速力こそがこのニックネームの真髄であり、1993年の NHL コーチ投票でも「最優秀スケーター」として最多票を得たことが、その名実ともに正当性を裏付けている。
↩︎ - 1970年8月2日、アメリカ出身。NHLで17シーズンにわたり活躍した右ウィング。カレッジはBoston University出身で、1992年にNHLオールルーキーチームに選ばれ、カルダー賞でも上位にランクイン。
NHLでは1,174試合に出場し、416ゴール・484アシスト、900ポイントを記録、アメリカ出身選手として得点ランキング上位に立つスターとなった。シカゴでは長年40ゴールペースで得点を量産し、5度のオールスター出場歴を持つ。
国際舞台でも1996年世界カップ決勝ゴールや2002年五輪銀メダルなど光る実績を残し、2009年にはアメリカン・ホッケー殿堂入りを果たしている。引退後は母校で指導を経てフロリダ・パンサーズのスカウトに。
↩︎ - 1970年9月19日、カナダ出身。NHLで223試合に出場し61ゴール・79アシストを記録した左ウィング。
Hall‑of‑Fame入りした兄マルセルの19歳年下で、兄の陰を意識しながらもジュニア時代に頭角を現し、1991‑92年にモントリオールへ昇格してNHLオールルーキーチーム選出。翌1992‑93年にはスタンレー・カップ優勝にも貢献。
その後NHLでの活躍が減速したが、IHLのCincinnati Cyclonesで人気選手となり、背番号21が永久欠番に。引退後はオンタリオ州で家族と暮らし、愛称“King”はエルヴィスを歌うカラオケ趣味に由来する。
↩︎ - 1943‑2021。NHLの伝説的ゴールテンダーであり、シカゴ・ブラックホークスの顔とも称された。1969‑70のルーキーシーズンに驚異の15シャットアウト(現在も破られていない)を挙げ、カルダー賞・ヴェジーナ賞を同時受賞。
バタフライスタイルの先駆者として技術革新にも貢献し、通算423勝・76シャットアウトはいずれもリーグ歴代上位。1988年にホッケー殿堂入りと背番号35永久欠番化され、その後もチームのアンバサダーとして活動。
2017年には「NHL 100人の偉大な選手」に選出されるなど、そのレガシーは今なお輝きを放っている。
↩︎ - NHLで毎年「最も優れたゴールテンダー」に贈られる名誉ある賞で、全32チームのゼネラルマネージャーによる投票で選出される。名称は、1925年に急逝したモントリオール・カナディアンズの伝説的ゴーリー、ジョルジュ・ヴェジーナに由来し、初回授賞は1926–27シーズン。
かつては「チーム最少失点のゴーリー」に限った選出方法だったが、1981–82シーズンからは個人の力量を評価する方式に変更され、現在は最高峰のゴーリーをたたえる賞として定着している。ジャック・プラントが最多7回の受賞を誇り、モントリオール出身ゴーリーの受賞数も最多。
2025年にはコナー・ヘレブックがハート・トロフィーも併せて獲得し、2冠の快挙を達成している。
↩︎ - 1965年3月31日、アメリカ出身。NHLで18シーズンにわたりゴールテンダーとして活躍。高校から直接NHL入りし、1983–84年の新人年間ではカルダー賞とヴェジーナ賞の二冠を19歳で獲得。
ピッツバーグ・ペンギンズでは1991年・1992年のスタンレー・カップ連覇を支え、“マネー・ゴーリー”として評価された。通算369勝、48アシストでゴールテンダーのアシスト最多記録を持ち、プレーオフ連勝記録など歴史的な記録も多数保持。
2009年にアメリカのホッケー殿堂、2023年にはホッケー殿堂入り。引退後は国内外でコーチングも経験し、個人的には娘の癌との闘病経験を経て、チャリティ活動にも尽力している。
↩︎ - 1965年4月21日、カナダのマニトバ州カーマン出身のゴールテンダー。大学時代はノースダコタ大学で活躍し、1987年にはNCAAチャンピオンに輝いた。1989年にシカゴ・ブラックホークスと契約し、NHLデビュー。
彼はそのキャリアをシカゴ・ブラックホークスをはじめ、サンノゼ・シャークス、ダラス・スターズ、トロント・メープルリーフス、フロリダ・パンサーズなど複数のチームでプレーし、通算484勝を挙げた。この勝利数はNHL歴代5位。
1991年と1993年にはヴェジーナ賞(最優秀ゴーリー賞)を受賞し、1991年にはカルダー賞(最優秀ルーキー賞)も獲得。
さらに1999年にはダラス・スターズの一員としてスタンレー・カップを制覇し、2002年のソルトレイクシティオリンピックではカナダ代表として金メダルを獲得するなど、国際舞台でも輝かしい成績を残している。
彼のトレードマークはイーグルのデザインが施されたフェイスマスクで、「Eddie the Eagle(イーグルのエディ)」という愛称の由来となった。また、その個性的な性格から「Crazy Eddie」とも呼ばれ、ファンからも親しまれた。
2008年に現役を引退した後は、2011年にホッケー殿堂入りを果たし、引退後はセントルイス・ブルースのゴーリーコンサルタントとして若手選手の育成に携わっている。
↩︎ - ウィリアム・M・ジェニングス・トロフィーは、1981–82シーズンから毎年、レギュラーシーズン中に最も少ない失点数を記録したチームのゴーリーに贈られる賞。受賞資格は、少なくとも25試合に出場したゴーリーであり、チームの失点数が最少であることが条件。このトロフィーは、ニューヨーク・レンジャーズの元オーナーであり、ホッケー界の発展に貢献したウィリアム・M・ジェニングスにちなんで名付けられた。
この賞は、1982年にヴェジーナ賞(最優秀ゴーリー賞)の定義が変更される前まで、最少失点チームのゴーリーに与えられていた。その後、ヴェジーナ賞は最優秀ゴーリー個人に贈られる賞となり、最少失点チームのゴーリーに対する新たな賞としてジェニングス・トロフィーが創設された。
このトロフィーは、ゴーリーの個人技術だけでなく、チーム全体の守備力や戦術の成果を反映する重要な指標となっている。
↩︎ - レギュラーシーズン終了時にプロホッケー記者協会(PHWA)が投票によって選出する、最優秀選手6名(ゴールテンダー1名、ディフェンス2名、フォワード3名)への栄誉ある称号。
1930–31シーズンの創設以来、シーズンを代表するスター選手をたたえる伝統として続いており、通算選出回数ではゴーディ・ハウが最多(ファースト:12回、セカンド:9回)。投票ミスによって、アレクサンダー・オベチキンが同シーズンに左ウィングと右ウィングの両方で選出されたという面白いエピソードも注目すべき点。
↩︎ - 1958年6月19日生まれ。CSKAモスクワで1970~80年代のソビエト・アイスホッケー界を代表する右ウィングとして活躍。KLMラインの中心としてソ連リーグでも多くの得点王やMVPに輝き、オリンピックやワールドチャンピオンシップで数々の金メダルを獲得。
1989年にNHLデビューを果たした際には31歳にしてカルダー賞(新人王)受賞という異例の快挙を成し遂げ、それがきっかけで「26歳以下のみ対象」にカルダー賞の受賞資格が制限される(いわゆるマカロフ・ルール)変更が行われた。
その後、NHLで通算384ポイントを叩き出し、2001年にIIHF殿堂、2016年にホッケー殿堂に相次ぎ殿堂入り。国際・国内で伝説的選手の一人として語り継がれている。
↩︎ - ソビエト選手権リーグ(Soviet Hockey Championship/CCCPアイスホッケー選手権)は、1946年から1992年まで実施されたソビエト連邦におけるアイスホッケーの最高峰リーグ。
リーグ誕生当初はソ連各地の都市に拠点を持ち、KGBや産業団体など国家的大組織がスポンサーとなり、選手たちは表向きは「アマチュア」ながらも事実上「プロ」として活動していた。なかでもモスクワのCSKAは32回の優勝という圧倒的な強さを見せ、1976年から1989年まで13連覇を達成。
ソビエト崩壊後の1992年にはCIS選手権へ移行し、後にロシアを中心としたIHL→スーパーリーグ→KHLへ受け継がれていく。
↩︎ - カナダ出身、1994年のNHLドラフトで全体7位指名。1995年からロサンゼルス・キングスやカロライナ・ハリケーンズで219試合に出場し、平均失点率2.54、セーブ率.908という安定した成績を残した。
ジュニア時代にはOHLで多くの個人賞を受賞し、さらにU‑17やワールドジュニアでは金メダルを連覇するなど、国際舞台でも活躍。NHLのルーキーチームには連続選出という稀有な記録を持ち、ドイツではリーグ最優秀ゴーリーにも輝いた。
引退後はゴールキースクールを主宰し、ジュニアチームを所有・指導しながら、日系の母を象徴する龍のマスクを通して文化的なアイデンティティも表現している。
↩︎ - カナダ出身。2008年にセントルイス・ブルースからドラフト全体34位指名。2019年にはスタンレー・カップを制覇。国際舞台でもU18世界選手権のMVPや世界ジュニア銀メダル獲得など輝かしい実績を持ち、NHLのオールルーキーチームにも2度選ばれるなど高く評価されている。
2024–25シーズンはニュージャージー・デビルズで控えとして活躍し、平均失点率2.66、セーブ率.908という安定した数字を記録。故郷のフレデリクトンへゴールマスクに故郷を象徴するデザインを描くなど、地域貢献にも力を入れており、自身が創設した「Program 34」を通じて青少年支援にも積極的に取り組んでいる。
↩︎ - NHLと選手会の労使対立によるロックアウトのため、当初予定されていた82試合からわずか48試合に短縮された異例のシーズンとなった。開幕は2013年1月19日へ遅れ、全試合は同一カンファレンス内で行われ、41.5%の試合が消滅。
新契約では収益分配が選手対オーナーで50–50へ変更され、契約年数やサラリーキャップ制度の見直しも行われた。混乱の中でも観客動員は過去最高を記録し、シカゴ・ブラックホークスはトップ成績とスタンレー・カップの両方を制するという快挙を成し遂げた。
短期集中、まさしく“プレーオフのような”熱気あふれる“ロックアウト・シーズン”として、歴史に刻まれている。 ↩︎