ジョー・パヴェルスキーのアメリカ・ホッケー殿堂入りの道のりと挑戦

アイスホッケー名選手

はじめに

 ジョー・パヴェルスキー、アメリカ・ホッケー殿堂入り!長年の努力が実を結び、ついにその名が歴史に刻まれることとなったパヴェルスキーの道のりは、決して平坦ではありませんでした。小柄な体型ながらも、常に自分を超えるために戦い続けた彼の軌跡は、まさに挑戦の連続。

 そのプレースタイルや心温まるエピソードを通して、パヴェルスキーの真の姿に迫ります。記事を読み進めて、彼のこれまでの活躍とともに、アメリカ・ホッケー殿堂入りの栄光を一緒に感じてみてください!

参照記事:NHL公式サイト「Pavelski silenced all the doubters on way to U.S. Hockey Hall of Fame

パヴェルスキー、アメリカ・ホッケー殿堂入りへ🏅

 2025年12月10日、ジョー・パヴェルスキーはアメリカ・ホッケー殿堂に名を刻みます。長いキャリアの末に、その努力が実を結び、ついにこの栄誉を手にすることになったのです。今年の殿堂入りメンバー1には、他にもザック・パリゼやスコット・ゴメス、タラ・マウンジー、ブルース・ベネットが選ばれていますが、パヴェルスキーのストーリーには特別な意味が込められています。

成功への道のり

 パヴェルスキーは、そのキャリアの中で自分を証明し続けてきました。今、彼はアメリカ・ホッケー殿堂に名を連ね、ゲームで最も優れたアメリカ人選手の一人であることが証明されています。「『もう十分やった』って思うことは一度もないんですよ」と彼は言います。

 「常に自分よりも優れた選手がいるし、誰かがもっと頑張っているから、自分はそれに競い合いながら進んでいるんです」。これこそが、彼の成功の秘訣です。

 「結局、深呼吸をして自分がどこにいるのかを感じる時が来るんですよね。でも、その道のりがどうだったのか、完全には理解できていない部分もあります」と、パヴェルスキーは振り返ります。

小さな身体、強い意志

 パヴェルスキーは、決して大きくも、強くも、速くもありませんでした。しかし、彼は決して諦めず、持っているものを最大限に活かしました。それは持ち前の頭脳、手の技、そして心の強さです。

 2003年のNHLドラフトでサンノゼ・シャークスから7巡目(全体205位)で指名されたパヴェルスキーは、その後18シーズンのNHLキャリア2を積み上げました。そのうち13シーズンをシャークスで(2006-19)、5シーズンをダラス・スターズで(2019-24)プレイしています。

 アメリカ出身のNHL選手の中で、彼はゲーム数で7位(1,332試合)、ゴール数で6位(476ゴール)、アシスト数で11位(592アシスト)、ポイント数で5位(1,068ポイント)にランクインしています。

 また、スタンレーカッププレイオフでは、ゲーム数で2位(201試合)、ゴール数で1位(74ゴール)、アシスト数で7位(69アシスト)、ポイント数で3位(143ポイント)を記録しています。

 彼は7回プレイオフの3回戦進出を果たし、スタンレーカップファイナルに2度進出、さらにオリンピックにも2度出場し、2010年のバンクーバー五輪では銀メダルを獲得しました。

 「本当に嬉しい」と、シャークスで2006年から2019年まで共にプレーしたホッケー殿堂入り選手ジョー・ソーントンは語ります。「彼は本当に多くのことが得意だった」。

進化し続けるプレースタイル🏒

 パヴェルスキーのプレースタイルは、年々進化していきました。最初の頃、彼は自分がどれだけ通用するのか、かなりの不安を抱えていたそうです。高校卒業後、2002-03シーズン、ウィスコンシン州からアメリカのウォータールーでUSHLのリーグ3に参加した際、最初は苦戦の連続でした。

 「みんな『この子はスケートできるのか?』って疑問に思っていたんじゃないかな」と、パヴェルスキーはその頃を回想します。「ウォータールー、アイオワでオリンピックサイズのリンクでプレーしていた時・・・」そして彼は笑いました。「最初はあまり綺麗なプレーではなかったね」。

 でも、苦しみながらもシーズン終了時には、60試合で69ポイント(36ゴール、33アシスト)を記録し、プレイオフでも7試合で12ポイント(5ゴール、7アシスト)を獲得。ゴール数でリーグを制し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ドラフトにかかりました。

 その際、身長5フィート11インチ、体重194ポンドとしてリストされています。これが、パヴェルスキーのキャリアのスタート地点でした。

 次の段階に進むために、パヴェルスキーの自信を高めてくれたのは、彼の2年目にウォータールーで指導していたコーチでした。

 「あるコーチが言ったんだ、『君が良い選手だって分かってるよね?』って」とパヴェルスキーは言います。「僕は『自分はいい選手だって分かっているけど、これらの選手たちは自分よりもきっと上だよ』って返答した」。

さらに成長するための意識

 大学時代、2004年、ウィスコンシン大学に進んだパヴェルスキーは、力強さとチームメイトのサポートで成長を遂げます。特に、ウェイトトレーニングでの努力が彼を一層強くしました。「最初は何も持ち上げられなかった。バーベルすら持ち上げられなかったんだ。2枚のプレートを使ってスクワットもできなかった」と、当時を振り返ります。

 でも、彼はすぐにこの壁を乗り越え、「この場所を好きにならないと、うまくいかない」という覚悟を決めます。パヴェルスキーはフレッシュマンのシーズンで41試合に出場し、45ポイント(16ゴール、29アシスト)を記録。その後、2年目には43試合で56ポイント(23ゴール、33アシスト)を挙げ、ウィスコンシン大学はNCAAのチャンピオンに輝きました。

 「その全国タイトルを取った後、『次は何を目指すべきか』という大きな気持ちが湧いてきた」とパヴェルスキーは言います。「『プロホッケーの世界を見てみたい。練習に行って、2時間自分を高めることに没頭でき、しかもそのことでお金をもらえるなんて、すごいことだ』って思ったよ」。

プロ入りからの成功🌟

 パヴェルスキーが22歳でプロ入りした2006年、彼はサンノゼ・シャークスに加わり、AHLのウスターでキャリアをスタートさせます。すぐに結果を出し、10月にはAHLのルーキー・オブ・ザ・マンスに選ばれるなど、その才能を証明しました。

 2006年11月22日、ついにNHLデビューを果たし、ロサンゼルス・キングス戦で初ゴール4を決めました。

 「NHLに入ってみると、みんながすごく高い評価を受けているから、最初に数回パスをつないだり、相手のディフェンスを突破したり、長年見てきた選手たちの後ろでプレーを作ったりすることで、『自分も結構いい選手なんじゃないか』って思えたんだ」と、パヴェルスキーは振り返ります。

シャークスでの活躍とチームメイトとの絆

 サンノゼでのキャリアを重ねる中で、パヴェルスキーはベテラン選手たちから多くを学びました。特にジョー・ソーントンやパトリック・マルローといった名選手から得た教訓は、彼の成長を支えています。

 「彼は計算高いんだ」と、デトロイト・レッドウィングスのコーチ、トッド・マクレラン5(当時シャークスのコーチ)は語ります。「物事を深く考え、常に自分の力を最大限に活かしてプレーする」。

 パヴェルスキーは、練習前にネット前に陣取り、ブレント・バーンズからのパックをティップインする練習を行うことで、リーグでも最も得意とする技術を磨き上げました。これが彼の強みとなり、NHLでもその技術は広く認識されるのです。

 「パヴェルスキーには本当に自分をさらけ出しているところがあって、それがみんなに尊敬され、共にプレーするのを楽しませたんだと思う」。

 年を重ねるごとに、NHLはますます速くなりました。「毎年、自分がスケートできるのか、持っていたほんの少しのスピードを維持できているのか、プレーして成功を収められるのか、常に試されている感じがした」とパヴェルスキーは語ります。「決して、去年と同じように成功が自動的に来るなんて思ってはいけないんだ」。

 しかし、パヴェルスキーは非常に賢く、確固たる決意を持っていました。そのため、あるチームメイトは彼を「最速の遅い選手」と呼んだそうです。

 「彼のゲームのメンタル面は本当に素晴らしく、成功するために何をすべきかをよく理解していた」とマルローは言います。「彼は常に自分のラインメイトと話し合い、プレーを作り、適切な場所にポジショニングしていた。成功するために必要なことを知っていたんだ」。

讃岐猫
讃岐猫

困難を乗り越えて輝く瞬間✨

 パヴェルスキーは、怪我を乗り越え、試合で重要なゴールを決めることでさらに多くのファンに愛される存在となりました。その象徴的な瞬間が、2019年のプレーオフで訪れたのです。

 ウェスタン・カンファレンス第一ラウンドのゲーム7、シャークスが3-0で負けていた第3ピリオド、パヴェルスキーがベガス・ゴールデンナイツのコディ・イーキンからクロスチェックを受けて負傷し、トレーニングルームに退場6(イーキンは5分間のメジャーペナルティ)。

 しかしその後、シャークスはそのパワープレーで4ゴールを決め、5-4でオーバータイム勝利を収めています。パヴェルスキーがいなくてもチームは奮闘し、彼の不在を感じさせない試合展開でした。

 パヴェルスキーは第二ラウンドのゲーム7で劇的に復帰し、コロラド・アバランチとの試合で先制点を決め、シャークスは3-2で勝利。SAPセンターのファンは大歓声を上げました。「おそらく、あれが僕の一番好きなゴールかな」とパヴェルスキーは言います。

やっぱ、ジョーはシャークス時代なんだよね。これが彼の一番好きなゴールだ!

ダラスでの新たな挑戦とキャリアの高みへ

 パヴェルスキーはそのシーズン後、制限なしフリーエージェントとなり、シャークスが契約を3年間延長しなかったため、2019年7月1日にダラス・スターズと3年契約7を結んでいます。

 彼はさらに5シーズンにわたり高いレベルで活躍を続け、2021-22シーズン、ダラスでの3年目にあたる37歳という年齢でキャリアハイの82試合で81ポイント(27ゴール、54アシスト)を記録。ダラスでもその存在感を発揮し、若手選手たちに多くのアドバイスを送るようになりました。

 「彼に疑いを持ったり、どうするのか質問したりする度に、彼は必ずそれを乗り越えて見せるんだ」と、パヴェルスキーをサンノゼでもダラスでも指導したピート・デボアは言います。「彼には本当に大きな敬意を持っている」。

こちらはダラスでの引退の年に作られた映像。もう1年はやるかな、と思ったんだけど。

アメリカ・ホッケー殿堂入りの栄光

 そして、ついにパヴェルスキーはアメリカ・ホッケー殿堂入りを果たします。ブレット・ハルやマイク・モダーノ、1980年の「ミラクル・オン・アイス」チーム8などと並び、ホッケー史に名を刻むことが決まりました。

 「そのコミュニティに迎え入れてもらうのは、本当に素晴らしいことさ」とパヴェルスキーは言います。

 「それが意味することは?それは、長い間このゲームをプレイでき、影響を与えることができた幸運を意味する。ホッケーが僕に与えてくれた経験や人生は本当に素晴らしいもので、素晴らしいスポーツであることを再認識させてくれる。そして、僕を助けてくれたたくさんの人々に感謝の気持ちを抱かせてくれるんだ。それが感動的で、謙虚な気持ちにさせてくれる」。

まとめ

 ジョー・パヴェルスキーのキャリアは、努力と決意がいかに結果を生むかを教えてくれます。彼のように、困難を乗り越え、常に自分を高め続ける姿勢は、誰にとっても大きなインスピレーションです。

 目標を持ち、挑戦を続けることで、どんな壁も乗り越えられることを忘れないでください。

讃岐猫
讃岐猫

【註釈】

  1. Zach Pariseはミネソタ州出身の名フォワードで、2003年ドラフト1巡目(全体17位)でNHL入り。NHLでの通算成績は1,254試合出場、434ゴール・455アシストの合計889ポイントをマーク。

     メジャーリーグでの活躍に加え、国際舞台でも輝き、2004年世界ジュニア選手権で米国初のゴールドを獲得。さらに、2010年バンクーバー五輪では銀メダル、2014年ソチ五輪ではキャプテンを務めるなど、代表としても長年チームを支えてきた。

     攻守にバランスの取れたプレースタイルや献身性、そして幼少期から培われたホッケーへの愛情が、アメリカンホッケー界のスタンダードを築いたひとりといえる。

    Scott Gomezはアラスカ州アンカレッジ出身で、1998年ドラフト27位でNHL入り。2000年にルーキーとしてキャリアをスタートし、そのシーズンに新人王(カルダー賞)とNHL初スタンレーカップ制覇を同時に成し遂げた珍しい選手。

     デビルズでの2度のスタンレーカップ制覇(2000,2003)に貢献し、アシスト能力とアイス上での視野の広さ、パワープレイでの巧みなパスワークで知られる。

     アラスカ出身かつメキシコ/コロンビア系という多様なバックグラウンドを持つ彼は、NHLにおける多様性の象徴でもあり、若い世代やホッケー未開の地域に夢を与え続けた選手。

    Tara Mounseyは、女子アイスホッケー界で輝いたアメリカのディフェンシブプレーヤー。1998年長野オリンピックで、アメリカ女子代表として初の五輪金メダル獲得に貢献。「守りの要」としてチームを支え、トーナメント中6試合で6ポイント(2ゴール4アシスト)と攻撃面でも力を発揮。

     高校時代は男子チームでプレーし、そのハードな環境で力量を磨いたと語っており、当時としては女子ホッケーの選択肢が少なかった中で道を切り開いた先駆者。引退後は医療の道へ進みながらも、女子ホッケー普及の礎となった彼女の功績は、米国ホッケー界において重要な意味を持つ。

    Bruce Bennettは、NHLや国際大会で50年以上にわたってホッケーを撮り続けてきた伝説的なフォトグラファー。プロとして18歳からキャリアを始め、これまで6,300試合以上のホッケーゲームをカバー。オリンピック6大会、スタンレーカップ優勝決定戦にも数多く立ち会ってきた。

     選手や試合だけでなく、ホッケーの歴史や文化、熱気と瞬間を写し取り、スポーツの“記憶保持者”として多くのファンや関係者から尊敬を集めている。プレーヤーではない彼の選出は、“ホッケーを映像で支えてきた功労”への敬意の表れといえる。
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  2. Pavelskiはただ“長くプレーした”選手ではなく、アメリカ人フォワードとして歴史に残る存在。たとえばプレイオフでは、アメリカ生まれの選手として最多となる74ゴールをマークし(プレーオフ通算201試合で143ポイント)、いざという場面での勝負強さを示した。

     さらに、彼はNHL屈指の“ティップ/リダイレクト(パックの跳ね返しからゴールを狙う)”技術を持つことで知られ、ネット前のポジショニングと反応の速さは、彼独特の長所だった。

     また、選手としてだけでなく“キャプテン”“チームの顔”としての役割も果たし、特に晩年も若手の模範となり続けたことで、チームに安定感と信頼をもたらした。

     こうした面から、Pavelskiのキャリアは「ただの長寿キャリア」ではなく、「実力・戦績・影響力すべてを兼ね備えたアメリカンホッケー界のレジェンド」と呼ぶに相応しいものである。そして、そのレガシーが今回の殿堂入りにつながったと捉えるのが自然であろう。
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  3. USHLは1947年創設、現在アメリカ北中西部および大平原地域を中心に16チームで構成される、16〜20歳を対象としたアマチュア最高レベルのジュニアホッケーリーグ。設立当初はセミプロ/“シニア”選手も混在していたが、1979–80シーズン以降はすべてジュニア選手のみのリーグとなり、大学ホッケー(NCAA)への進学、さらにはプロ選手への道を目指す若者たちの主要な登竜門となっている。

     USHLでプレーする選手の多くは、将来的に大学ホッケーやNHLなどプロへの進路を目指し、高水準な競争環境で成長を目指す。実際、USHL出身選手の多くがNCAAディビジョンIでプレーし、また多数がNHLと契約している。

     ウォータールー・ブラックホークスは、USHLを代表するクラブのひとつで、もともとは1960年代からセミプロ/シニアチームとして成功を収め、1963–64から1967–68まで5連覇を成し遂げた歴史がある。1977年のリーグ改編後はジュニアチームに移行し、現在もClark Cup(プレーオフ優勝)やAnderson Cup(レギュラーシーズン制覇)を複数回獲得するなど、USHL内でも高い実績と育成力を誇るクラブ。

     そのため、パヴェルスキーが高校を出て米国のウォータールーでUSHLに参加したというのは、ただの“地方リーグ”ではなく、多くの将来有望な選手が集まり、プロや大学へのステップとして整備されたリーグでプレーを始めた、ということを意味する。当時の彼にとっては“見慣れない大きなリンク”“高いレベルの競争”など、多くの壁があったはずだが、それを乗り越えた――という背景理解があると、彼の成長ストーリーがよりリアルに感じられる。
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  4. 2006年11月22日、サンノゼの本拠地で行われたシャークス対キングス戦は、パヴェルスキーにとって記念すべき夜となった。この試合で彼は、NHLデビュー戦からわずか数プレー後に初ゴールをマーク。さらに、チームは6–3で勝利し、その華々しいスタートが大きな話題となっている。

     このゴールの価値は、単に「デビュー初ゴール」というだけではない。当時、シャークスは主力フォワードが負傷しており新戦力の役割に期待がかかっていた状況だった。パヴェルスキーは召集から数時間でアイスに立ち、予想以上の結果を出すことで、チーム内外に「下位指名から這い上がった若手」の可能性を強く印象づけた。

     また、この初ゴールは彼の「即戦力」としての資質を象徴する出来事だった。この後の数試合で4ゴールを決めるなど、プロの厳しい舞台でも通用することを証明。こうしたスタートダッシュが、彼のキャリアにおける「信頼」と「実力」の土台を築いたのである。

     したがって、このキングス戦での初ゴールは、パヴェルスキーがただの「ドラフト下位出身選手」から、多くの期待を背負うNHL選手へと一歩踏み出した重要な瞬間—つまり、彼の長いキャリアにおける“転機”のひとつと捉えることができる。
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  5. マクレランは、もともと選手経験もあるものの、コーチとしてキャリアを築き、NHLで長く指導の第一線に立ち続けてきた名将。2008〜2015年にSan Jose Sharksのヘッドコーチを務め、その間チームを常にプレーオフ争いに導き、複数回の40勝超え、100ポイント超えを記録。クラブ史上最多の試合数・勝利数といった実績を残した。

     その後もEdmonton OilersやLos Angeles Kingsを率い、どのチームでも一定の成果を挙げ、2024年にはDetroit Red Wingsのヘッドコーチに就任。NHL通算600勝に迫る勝利数と、安定した戦績で、現役コーチの中でも上位の実績を誇る。

     マクレランの強みは、戦術眼と選手の能力を最大限に引き出すコーチングにある。彼のもとでは、選手個々の強み・弱みを分析し、ポジション取りやプレースタイルの最適化、試合の流れに応じた柔軟な戦略を展開。こうした“考えるホッケー”と“準備の徹底”が、彼に率いられたチームが安定して好成績を収める土台となっている。

     そのため、記事内で語られているように、選手であるJoe Pavelskiの“計算高いプレースタイル”や“準備と努力”を後押ししたのが、まさにこのマクレランの指導スタイルだと理解できる。
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  6. 2019年4月23日、San Jose SharksとVegas Golden Knightsのプレーオフ第1ラウンド Game 7。第3ピリオド残り約10分47秒、3–0とリードされた状況で、フェイスオフに勝ったPavelskiに対し、ゴールデンナイツのCody Eakinがチェストへのクロスチェックを行った。

     このプレーでPavelskiはバランスを崩し、別の選手との接触でバランスをさらに崩され、ヘルメットを氷に強く打ち付けながら転倒。頭部を氷に激しくぶつけたことで大量出血し、担架で運ばれる事態となった。

     審判団は当初ペナルティをコールせずプレーは継続されたが、数秒後に協議の末、Eakinに対して「5分間のメジャー+ゲームミスコンダクト」の判定が下された。

     この判定が試合の流れを一気に変えるきっかけとなった。Sharksはこの5分間のパワープレイで4ゴールを集中させ、わずか4分間で3–3の同点に追いついた。最終的にオーバータイムで勝利し、劇的な逆転突破を果たしている。

     試合後、リーグはこの重大な判定ミスを認め、ゴールデンナイツ側に謝罪を表明。一方でゴールデンナイツの選手たちは判定を激しく批判し、「通常のクロスチェックであれば2分のマイナーで十分。なぜ5分メジャーなのか」という声が上がった。

     この事件は、単なる「偶発のファウル」ではなく、試合の勝敗を左右する重大な転換点となった。また、Pavelskiの頭部流血というショッキングな事故が、チームメイトやファンの感情を一気に爆発させ、シャークスにとって記憶に残る“最も熱い夜”のひとつとなった。

     だからこそ、この瞬間は単なる“ゴール”や“勝利”以上に、Pavelskiのキャリアとチームの歴史における象徴的な転換点として語り継がれているのである。
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  7. 2019年にPavelskiがダラス・スターズと契約した際には、NHLメディアやファンの間で賛否両論が巻き起こった。一方では、得点力不足に悩んでいたダラスにとって、38ゴールを挙げたばかりのPavelskiは攻撃陣を強化する即戦力として期待され、経験と勝負強さを備えた理想的な補強と評価されていた。

     しかし同時に、30代後半に差し掛かっていたことから衰えを懸念する声も根強く、移籍直後の出足が鈍かった時期には「契約ほどの効果が見られない」という批判もあった。古巣サンノゼでは、キャプテンとしてのリーダーシップを失ったことへの落胆が見られ、その後のチーム成績低迷が「放出は誤算だった」と振り返られる原因にもなった。

     ただし移籍後、Pavelskiはスターズで安定した成績を生み出し、若手の手本となりながらキャリアハイに近い数字を残したことで評価は一変した。後になってシャークス側からも「彼を残さなかったのは間違いだった」との声が出るなど、結果として移籍は成功例とされるようになった。
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  8. 1980年のアメリカ男子ホッケー五輪代表チームは、学生主体のアマチュア選手たちだけで構成されていたにもかかわらず、五輪冬季大会でプロ軍団の旧ソ連代表を破るという歴史的な大番狂わせを成し遂げた。

     当時ソ連は、国際ホッケー界を長年支配し続けていた圧倒的強豪で、五輪では1968年以降無敗を続けていたにもかかわらず、1980年2月22日、若きアメリカ勢は4–3で勝利。これが「Miracle on Ice」と呼ばれ、世界中に衝撃を与えた。

     大会当時、アメリカ代表はトップ大学ホッケー選手らによって構成され、平均年齢は約22歳。いわば“大学ホッケー選手の寄せ集め”とも言えるチームでしたが、彼らは当時の国際大会ルールに則り、スピードと機動力を武器に“ソ連流”のパス中心のスタイルと、アメリカらしい激しいチェックと速攻を融合させた独自の戦術で勝負に出た。これが功を奏し、あの大勝利につながったのである。

     この勝利によって、1980年代表チームはスポーツ界を超えて国民的な英雄となり、アメリカにとってホッケーの歴史を変える象徴的な存在となった。彼らの業績はその後、U.S. Hockey Hall of Fameに正式に認められ、殿堂入りしている。

     さらに注目すべきは、その後の影響である。“Miracle on Ice”は単なる勝利ではなく、若手アマチュア選手たちにも国際舞台で夢を叶えるチャンスがあるという希望を示し、アメリカ国内のホッケー人気と競技人口の拡大に大きく貢献。この一戦があったからこそ、後の選手たち―たとえば今回紹介しているJoe Pavelskiのような選手たちが「アメリカ人フォワード」として大舞台で活躍する土壌が育まれたのである。
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